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ありがとうの気持ちを伝えたい時に

ありがとうの気持ちを伝えたい時に

「おばあちゃんはどうして珈琲を淹れる時に目を閉じるの?」

「それはね、蒸らしている時に感謝の気持ちを込めているからだよ。それとね︙」

そう告げると、祖母は僕を見て優しく微笑んだ。

 年の瀬、僕は祖母の夢を見て目を覚ました。それは、一年の終わりに思い出を振り返る感覚にも似ていて、心の何処かに転がった思い出せない言葉を探しているような、そんな刹那にも似ていた。視界が鮮明になって数秒、僕の瞳から頬に向かって涙が架かる。前に涙を流したのはいつだっただろうか。僕は自分が涙を流した理由も、そこに在るはずの感情の正体も分からないままでいた。

 目を覚ましてからというもの、僕はじっと天井を見つめている。学生アパートの冬は冷たくて、僕が暮らす部屋の床はきっと、他の部屋より更に冷たい気がする。そして僕の中で何かが終わりを迎え、いよいよベッドから起き上がり台所に向かう。珈琲豆が大量にストックされた収納棚から珈琲豆を選び、珈琲を淹れる準備を始めた。子供の頃から当たり前のように行ってきた日課は、大学生になり一人暮らしをしている今でも、僕の体から抜け落ちる事を知らない。提出予定の卒業論文も九割近くの工程が終了し、早々に就職先も決まった僕は、空いた時間をアルバイトに充て、深く入り込める趣味もないまま、割と名の知れた優良企業に入社するまでの残された大学生活を浪費する様に生きていた。

 部屋の窓辺に夕日が差し込み始めた頃、僕は夕食の準備をするために近くのスーパーへと向かった。聴きたい曲も見つからないままイヤホンを付け、機械が僕の嗜好を元に選んでくれた無難すぎる洋楽が鼓膜と触れ合う。そして食材を買い終えてスーパーを出た頃には、空は藍色を纏ってセンチメンタルになりそうな程の美しい情景を見せた。その景色に見惚れていると、突然、僕のスマートフォンが鳴った。

「優(ゆう)、今から帰ってこれる?おばあちゃんが階段から落ちて、救急車で病院に運ばれたの︙」

「えっ...」

僕は瞬間的に言葉を失った。電話越しに聞こえてきた母の声は平然を装いつつもどこか震えていて、僕は夕日にさえ目もくれずに帰路に着いた。

 僕はその日の夜行バスで実家へと向かった。幼少期の思い出のほとんどが祖母と過ごす時間で、珈琲屋を営む祖母の隣、古めかしい珈琲器具に囲まれながら育った。祖母は僕が淹れた珈琲ならどんな時でも「優くんが淹れた珈琲は美味しいねぇ」と言いながら笑顔で飲んでくれた。珈琲の淹れ方も、人間という生き物の優しさも、僕の体にそれが存在しているのであれば、それはきっと祖母がくれた物だ。そんな事を思い出しながら夜行バスの窓に映った自分の顔を見つめた。鏡は僕が隠し通したい不安さえも、鮮明に映し出す。そして、内定が決まっても尚、満たされる事を知らない僕の心が、祖母と顔を合わせる事を拒んでいた。祖母に就職が決まった事を自分の口から伝えていないのは、子供の頃から「おばあちゃんの珈琲屋さんで働く」と言い続けてきた事への背徳感と、まだその気持ちを断ち切れていないにも関わらず、進む道を決めた自分への裏切りが原因だ。夜行バスの窓は、僕の陰りを夜に溶け込ませる様に淡く映し出している。

「おばあちゃんにも内定の話しないと」

次第に窓は外気との寒暖差で曇り始め、夜行バスが目的地に達した頃、僕はバスの窓に寄り掛かり、ため息をついた。曇った窓は、僕のため息さえも見逃してはくれなかった。

 実家に着く頃、日が昇り始めの綺麗な空が見えた。夕暮れとは少し違った、時間という不純物がまだ混じり合っていない優しい空の色だ。荷物を置き、母と軽く言葉を交わすと一緒に病院へと向かった。そして、病室に入ると祖母は変わらない笑顔で僕を出迎えた。母から聞いた話によると大事には至っていないらしく、実際に笑顔で僕の前に存在してくれる祖母の姿を見て、僕は心の中で安堵した。

「ごめんね、優くん。おばあちゃん、ドジしちゃってねぇ。」

僕は出来る限り祖母に気を遣わせまいと、注意を払いながら言葉を選ぶ。

「ううん、丁度帰ってこようと思ってたんだ。おばあちゃん元気そうで良かった」

それから祖母は、最近の出来事を話し始めた。本当に今年七十歳を迎えたのかと思うほどしっかりした口調で、そして相手の反応を見ながら言葉を交わし合う気配りすら、昔から何一つ変わる事なく、いつも周囲の人々を優しく包み込むのだ。しかし、その親切心からか、面会時間の間、僕が内定をもらった事に関しては一切触れてこなかった。

 病室を出て、母が実家へと車を走らせる。母が僕に大学生活の話を聞いて、話題が尽きればそのまま沈黙という時間を交互に繰り返した。決して仲が悪いわけではないが、今まで両親が敷いてくれたレールの上しか歩いてこなかった僕は、両親と本音で語らうという経験をしたことがなく、ましてや母は高校教師、父は警察官というお堅い家庭で育ったものだから、両親の教えが僕の中では「正義」そのものだった。そんな事を考えるうちに実家に着き、僕はそそくさと自分の部屋に入った。部屋に入ると鍵を閉める癖も嫌味なほど変わらず僕の中に残り続ける。

 夕暮れが近づくと外に出たくなるのは、子供の頃から持ち合わせている癖だ。実家に帰ってきてからも変わらずに時間を持て余していた僕は一人、夕暮れ時に祖母の珈琲屋を訪れた。空間を優しく包み込むアンティーク調の内装も、使い古された珈琲器具も、あの頃と変わらない。それでも、誰もいない閉店中の店内を見渡すと、僕はあの頃感じる事のなかった寂しさを覚えた。本当は気づかないふりをしているだけだった。心の奥に仕舞い込んだ珈琲屋への憧れも、その感情に折り合いをつける為に、ここを訪れたことも。それでも、この場所で思いを巡らせれば巡らせる程、溢れるのは楽しい思い出ばかりだ。花に例えながら珈琲豆の特徴を教わったこと、祖母が珈琲を蒸らす時に自分も真似して目を閉じたこと。どれも綺麗な思い出ばかりで、終わらせに来たはずなのに、余計に踏ん切りがつかなくなる。食べかけの感情は、子供の頃から片付けられる事なく残っていた。

 僕が手持ち無沙汰に厨房で佇んでいると突然、店の扉が開き、扉に付属したベルの音が鳴り響いた。夕暮れ時、店内には柔らかい光が差し込む。そして、扉の向こうには母が立っていた。母は僕を見て少し驚いた表情を見せたが、すぐに表情を崩して優しく微笑んだ。

「優もお店の事が心配になったの?」

僕が少し考えて頷くと、母は店内を見渡しながらゆっくりと厨房の方へと向かった。そして僕を座らせると「珈琲淹れるからちょっと待ってて」と告げ、準備を始める。手際よく珈琲を淹れる準備をする母を見て、僕は驚きを隠せなかった。そして、珈琲を蒸らすためにケトルからお湯を放ち終えた瞬間、僕は目を見開いた。珈琲を蒸らす時に目を閉じる仕草が、祖母にそっくりだったのだ。驚く僕を横目に、珈琲を淹れ終えた母は二人分のマグカップを持って、僕の向かい側の席に座った。

 母は僕と視線を合わせると、「飲んでみて」と珈琲を差し出した。珈琲の中、液体の表面には外から差し込む街灯のオレンジと母の少し得意げな表情が映し出される。今まで見た事のなかった表情。珈琲の表面は宝石みたいに煌めいていた。一口飲むと、口の中には懐かしい味が広がる。祖母の味だ。奥行きがあり、優しく包み込むような祖母の珈琲の味がした。すると、母はタイミングを見計らったように話し始めた。

「お母さんもね、子供の頃はよくおばあちゃんと一緒に珈琲を淹れていたのよ。毎日の様に子供には大きすぎるケトルを持って、踏み台なんかも使ったりしてね。本当に楽しかったし、珈琲もこの店も好きだったの」

母は厨房の方を見つめながら話す。

「店の看板娘なんて呼ばれてたし、私もそう言ってくれるお客さんの事が好きだった。でも、教師になって、珈琲を心から楽しめる余裕も無くなって、今では缶珈琲で済ませる事も増えてしまって」

そして、今まで離していた視線が、再び僕と繋がった。母は少し申し訳なさそうな表情を浮かべ、僕に告げる。

「ごめんね、珈琲を好きな優から、珈琲を遠ざける様な形になって。習い事をたくさんやらせたし、勉強もたくさんさせた。優は周りを見れる子だから、自然と良い子になれてしまったし、優がやりたい様にさせてあげればよかった」

そして数分間、僕と母の間には沈黙が広がった。珈琲を啜る音さえ響き渡るほどの沈黙が続いて、静寂の中、母のスマートフォンの通知が沈黙を破る。スマートフォンには子供の頃の僕が笑顔で珈琲を淹れている写真が浮かび上がった。母はそれを見て少し恥ずかしそうに画面を閉じた。僕の心が騒つく。そして、僕は母の淹れた珈琲の最後の一滴を飲み干すと、栓をしていた瓶から感情が溢れ出す様に、言葉を零した。

「分かってるよ、全部。母さんと父さんが僕のためにたくさん習い事をさせてくれた事も、安定した仕事に就けるようにって言い続けてくれた事も、全部、僕の事を一番に考えてくれていた。勉強で分からないところがあったら、こたつの中で僕を挟むように寄り添って教えてくれたり、本当に全部嬉しかったんだ。ありがとう。ただ、僕が珈琲を選べなかっただけだよ。仕事にする勇気がなかっただけ。結果的におばあちゃんの珈琲屋に寄り付かなくなったのも、僕の弱さだ」

母は時々頷きながら聞いていた。次第に瞬きの回数がお互いに増えていくのが分かった。そして僕は、今まで言えなかった一言を、ようやく口にした。

「母さん、今まで大事に育ててくれてありがとう。僕が道に迷わないように、手を引いてくれてありがとう。もう、迷わないで歩けるよ。やっと並んで歩けるから」

僕はそう言って、母に微笑んだ。

「あなたにありがとうよりも平気だよって言わせる回数の方が多くて、その度に距離が離れていく気がして。優の為にって思っていても、それはきっと私のエゴだった。でも、二十二年経って、やっと母親として笑い合えたのかなって」

涙交じりに微笑み返す母は、無邪気な子供の様でなんだか嬉しかった。こんなに僕の事を大切に思ってくれている家族がいて、どうして僕は嫌われない様に生きてきたのか。自分一人幸せに出来ないで、誰かの幸せなんて作れないよな。僕は母の笑顔を見て、そんな事を考えながら口を開いた。

「母さん、僕、やっぱり珈琲が好きだよ」

雪の様に降り積もった僕の長い言い訳は、待ち侘びた春に向かって優しく溶けていった。

 春になると、珈琲屋の隣には桜が咲いて、花びらの隙間から覗く木漏れ日がくすぐったい。僕はその光を浴びながらエプロンを着けて、新調したケトルにお湯を注いだ。店のベルが鳴り、扉から春の柔らかい空気がひらひらと入り込む。振り返るとそこには僕の両親が立っていた。

「私たちが最初のお客さんでいいかしら」

僕は大きく頷き、二人の目を見て口を開いた。

「いらっしゃいませ」

厨房に戻り、珈琲を淹れる。珈琲を蒸らす時、僕は静かに目を閉じた。目を閉じた瞬間、瞼の裏ではまだ舗装のされていない道が広がっていて、振り返ると両親と祖母が微笑んだ。みんなが僕に近づいて、背中に優しく触れたところで僕はゆっくりと目を開いた。ボヤけた視界と意識が鮮明になって、後ろでは祖母の温かい手が僕の背中を包んでくれていた。

「珈琲を飲んで感じた味わいは人それぞれ。甘いなぁとか苦いなぁとか。それに全く同じ様に淹れ続ける事もきっと、人間だから出来ないけど、感謝の気持ちだけはいつも同じくらい、注げるように」

僕は祖母を見ながらそう言った。そして、祖母はいつもの様に優しく微笑んだ。

「よく覚えていたわねぇ」

祖母は僕の背中を摩りながら笑顔で僕を覗き込む。

「これから、頑張るんだよ」

僕は大きく頷いて言葉を返す。

「きっと大丈夫。母さんの息子で、おばあちゃんの孫だからね」

窓辺に置かれた僕のスマートフォンの通知が鳴り、ホーム画面には大人になった僕が珈琲を淹れて、それを祖母と母、2人で見守っている写真が映っていた。僕の中に優しさが息づいているのなら、それはきっとみんなが僕にくれた物だ。そして、僕がこれからみんなに与えていく物だ。

「ありがとう」

僕は隣で笑い合う家族を見ながら呟いた。窓辺から春を覗くと、春先の空気は澄み渡り、枝を離れた桜の花びらは風を纏い、どこまでも遠く飛んでいった。

著者 高嶺理想
詩書きと写真家。1998年、長崎生まれ。長崎大学在学時にカメラと小説執筆を始める。卒業後は地元企業に就職。現在、小説サイト「monogatary.com」にて小説の執筆を行う。また「写真を詠む」をコンセプトに小説と写真をリンクさせた作品をTwitter、Instagram等のSNSで掲載中。2022年春には写真集の発売、秋には九州内で写真展の開催を予定。
コーヒーについて
ふと一息ついて、今 “ あるもの ” に意識を向けてみる。天気の良い日に気持ちよく早起きできた休日。いつも優しく気をかけてくれる友人や職場の先輩。好きな小説を思う存分読めるゆっくりとした一人の時間。当たり前に過ぎていく日常や人の優しさが、当たり前ではないと気づける時、自然と感謝の気持ちが湧き上がってくるもの。今回のコーヒーは、チョコレートや蜂蜜の優しい甘さと、熟したリンゴのような甘酸っぱさがスッと入ってくる心地よい中煎りのブレンド。丸みのある滑らかな質感と、優しい甘さがあたたかい気持ちにさせてくれます。
ものがたり珈琲
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