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朝焼けとともに一日のはじまりに

朝焼けとともに一日のはじまりに

「やだ!やだ!待って!!」

自分の声で目が覚めた。額にはどっぷりと汗をかいている。

カーテンの隙間から射す朝焼けが、やけにまぶしい。

どうやら炬燵で寝てしまっていたようだ。

昨晩、これからどうしていこうか、仕事はどうしようかと考えている途中だったと、

炬燵の上にちらばったくしゃくしゃになった紙くずを見て思い出す。夢、本当にやりたいこと、好きなこと、耳触りのいい言葉が、現実味を伴わず黒いインクで横たわっている。

「はあ。」

机の上には朝焼けの陽が差し、やわらかくその残骸を照らしていた。

私は、また同じ夢を見ていた。

『よーいドン!!』

男性の威勢のいいかけ声の後、ピストル音が勢いよく鳴り渡る。

横一列に並んだ顔の見えない友人たちは一斉に走り出す。一方で自分はなぜか足が動かない。どれだけ足を動かそうとしても、足と地面を糊でべったり貼り付けたように、何も動かないのだった。

この夢を見たのは何回目だろうか。

本も映画も気に入れば何十回でも読むし観るタイプだが、

この夢だけは見たいとも思っていないのに、しつこいくらい何度も私の夢に訪れた。

小さいころから家具が大好きで、

家具に囲まれて過ごせる今の仕事は幸せだった。

私は家具メーカーの販売員として働いている。

しかし時が経つにつれて、

どうしても自分の違和感を放っておけなくなっていった。

相手が好きだと思うものがなければ、縁がなかったと諦めたらいい。

その方がお互いにとって健やかであるのは間違いないのに、

営業である私はノルマを課されていたため、少しでも単価の高いものを、より多くのものを目の前のお客さまに購入してもらうために、必死だった。

いつしかお客さまではなく、お財布と話をしているような気分になっていた。

あるとき仕事の昼休みに公園へ行き、ぼーっとコンビニのコーヒーを飲んでいた。

すると砂場で遊び終わった子どもたちが見えた。遊びの後の「おかたづけ」中だった。

思わず嫉妬するほど、それはとてもたのしそうに「おかたづけ」をしていた。

子どもたちの朗らかな笑い声、あたたかく差す陽、どんどんかたづいていく砂遊びの道具。

その様子をみてハッとした。

必要なことは嫌でもやらなければいけない、

だったらせめていつもは好きなことをやっていたい。

その場で上司にメールをした。

『【ご共有】一週間休暇取得について』と件名を書くスピードには自分でも驚いた。

何事も決めさえすれば、本当は行きたかった場所へ私を運んでくれる。この決断は、運命が私の味方になってくれそうな予感がした。

翌日、叔母のミネ子さんがいる島へと私は向かった。

子供の頃、叔母の住むこの島に訪れた景色が、走馬灯のように頭を駆け巡ったからだ。

小さい頃はよく母とこの島を訪れた。

いつだったかは覚えていないが、鮮明に覚えている瞬間がある。

家族と離れ、ひとり海に行った。砂浜で貝殻に耳をあてる。ぼおっという音が私の耳に、身体にこだまする。その音は、声でもなく、音でもなく、ただ私の奥底にあるいのちが脈打つ、嘘のない世界の鼓動の音がした。そこに還りたかった。

島の人口は二千人弱、小さな港町だ。今年七十五歳になるミネ子さんが私の叔母だ。嫁ぐためにこの島に来て、粘度の高い土の特性を生かし陶芸家として活動している。ミネ子さんとはなんと三十年の付き合いだ。そう、私は三十歳になった。どうかお願いだから嘘だと言ってほしいと神様に願うが、その祈りはことごとく現実という名の刃でずたずたにされる。時の流れは容赦なく残酷だ。

私は必要最低限の荷物を持って家を出て、フェリーにのり、島に降り立った。突然だったにもかかわらず、ミネ子さんは私を特別扱いするわけでも無下にするわけでもなく、ただいつもそこに在る根を張った安心感を持って、迎え入れてくれた。そういう、飾り気はないが愛をくれる振る舞いが嬉しかった。

「ユタ、あなたが聴こうとしてないのよ。澄まして。耳を、目を、心を。」

東京からがっくり肩を落として島へ帰ってきた私に、ミネ子さんが開口一番放った言葉。

はじめは何を言っているのかよくわからなかったが、まずは自分の中のノイズをゼロにしていきたいと思った。そこで私はただひたすらに自分の好きな時間、好きなもの、好きなことを集めていった。それはまるで、小さいころにあった宝物箱に何でもないものを入れては、ながめ、うっとりする、あの無意味だけど豊かな時間を取り戻すようだった。

六日目の今日、まだ、聴くことができている気はしなかった。

明日、私は東京へ帰る。

今朝は、ミネ子さんとモーニングの約束をしていた。汗で少ししめった髪をタオルで拭く。急いで髪をしばり、よれよれのTシャツを着る。意外と気に入っている、島のスーパーで買ったTシャツだ。

海沿いを歩き、行きつけの喫茶店へ向かう。

朝焼けから朝日へと変わって陽の光に照らされる海は、すっかりごきげんに輝いていた。

海のきらめきを祝福するかのような、美しい小鳥のさえずりが聴こえる。

歩いていると、喫茶店が目の前に現れた。頭がぼーっとしたままドアを開ける。

「おはよう」

普段コーヒーを淹れる以外物音を殆ど立てないマスターがいう。

薔薇色のステンドグラスのランプがある店内の左端のテーブル。そこがミネ子さんの定位置だ。

「ああ、ユタ。おはよう。今日の朝焼けは情熱的だったわね」

ミネ子さんはいつも発言が詩のように美しく、話しているだけでうっとりする。

というものの、私の今朝の目覚めは最悪だ。そんなイタリアのオペラのような感覚で朝を迎えられていない自分にまた嫌気が差した。

いつもので、とモーニングセットを頼み席に着く。

「どうしたのよ、そんな浮かない顔して。まだ悩んでるの?」

ミネ子さんは、琥珀色のコーヒーをひと口飲み、陽だまりのような声で言う。深紅のカットソーがよく似合う。

「昨日も炬燵で寝てしまって、変な夢を見て、おでこは汗でぐちゃぐちゃで、もう最悪の目覚めでした。みんなに置いていかれる夢を見るんです。ゴールに行けないんです。私だけ地面に足が張り付いて動かないんです。」

想像以上に早口で勢いよく言い放った自分にも驚いたが、相当嫌だったのだろう。

「なんで嫌なの?」

きょとんとした顔で、ミネ子さんはいう。

時折少女のような目になる彼女は不思議で仕方ない。

「いや、だって自分だけゴールにたどり着けないって嫌じゃないですか」

すこしイラついて、コーヒーをひと口すすり、早口で返事をする。

「ゴールにたどり着くことが正解なの?走り出さなければ見える空の移ろいや、感じられる風のにおいがあるじゃない。おともだちと比べると嫌な状況かもしれないけれど、あなただけの時間とみたときには、きっとすごく贅沢な時間よ。」

ミネ子さんは、もうひとくちコーヒーをすする。

「ゴールにたどり着かないといけないって、たしかに誰が決めたんだろう」

ぽつりとつぶやく。しばらく店内のクラシックだけが流れる時間が続いた。

「さ、私はそろそろ土づくりに戻るわね。ゆっくりしてってちょうだい、あわてんぼうのユタちゃん」

くいっとコーヒーを飲み干す。

「あ、あと」

立ち上がろうとして、ミネ子さんがまた椅子に座ってじっと私の目を見る。

「ゆらぐ、そよぐ、なぐ。この三つの言葉を、覚えておきなさい。」

「ゆらぐ、そよぐ、なぐ?」

あまりに突然のことで、思わず、聞き返す。

「海を見てみて。きっとそこにユタの探し物があるはずよ」

無垢な微笑みを私に向けて、ミネ子さんは美しい言葉を残して去っていった。

ひとり残された私は、しばらく宙を見てぐるぐると考えあぐねていた。

この五日間、様々な自己啓発本を読み漁っては、確かな何かを掴もうとしては消えていった。自分の人生の棚卸をしたり、自己分析をしたりと、日々考えてはいたけれど、一向に納得する答えは出なかった。

「よし、海行こ」

ひとりごとをつぶやき、コーヒーをくいっと飲み干す。窓の外は快晴だ。

「マスター、ごちそうさまでした!」

勢いよくドアを開け、近くの砂浜へと向かった。

この砂浜は十人中十人が気に入るかというとそうでもないような場所だけど、私はいつもひとりで考え事をしたいとき、ここに来る。流木がごろごろと無造作に転がっているので少し歩きにくい。でもひとつずつ形が違うので、いつも人間みたいでおもしろいなと観察している。うちの島には観光客向けの浜もいくつかあるが、なんとなく落ち着かなかった。誰かにとってのいいことが、私にとっていいこととは、限らない。

目をつむって、呼吸をする。

身体に空気を一杯に吸い込み、胸がぐうっとふくらむ。

私は、ちゃんと、ここで、生きている。

水面は絨毯のようにゆらめき、

時折トンビの鳴き声が響く。

肌に生暖かい風が触れる。春の風がそよぐ。

すーっと風が通り抜け、海が凪ぐ。

「ゆらぐ、そよぐ、なぐ、かあ」

いつの間にかその状況を享受していることに気づいたときには、

わたしはすっかりその景色の一片を担い、コバルトブルーに煌めく水面に自分が溶け出しそうだった。

遠くには隣の島の輪郭がうっすらと見える。

私は今ここにいるけど、向こうの島でも同じような暮らしがあって、人がいて、そんな場所がいくつも日本中に、世界中にあると思うと不思議で仕方がない。

後ろから人が歩く音が聴こえてきた。

「わあユタちゃん!」

振り向くと、声の持ち主は、ミネ子さんの家の近くに住むトオルだった。以前会った時は小学四年生くらいだったろうか。肩幅も広くなり、子どもから青年の顔つきになっている。私が記憶していたトオルはサッカーボールの似合う少年で、すっかり大きくなって驚いた。

「トオル、ひさしぶり。おっきくなったね。もうすっかりイケメンじゃん。何してんのここで。」

久しぶりの再会に嬉しくなり、ワントーン高い声で話しかける。

「いや特に理由はないよ。気が向いたから来ただけ。でもユタちゃんさ、なんでひとりでここにいるの?その方が俺気になってるよ。」

俺、という一人称にドキッとしたのも束の間、なんだか見透かされている気がして、思わず苦笑いをした。

「いや、それは、その。ちょっと悩んでてさ。この砂浜だったら、その糸口が見つかるんじゃないかって、直感で思って来てみた」

少し沈黙が流れた。波の音が静かにその時間を包む。

真摯な会話が生まれる前の静寂は、美しい。

「ユタちゃん。全然関係ない話していい?」

トオルがやさしい声で聞いてくる。コクリと私はうなずいた。薄黒く健康的な肌は、島で生まれ育った証だ

「朝焼けと夕焼けって、全く同じ光って知ってる?」

「えっ?」

「朝焼けと夕焼けは、光としては全く同じ。何がちがうって、その周りなんだよ。大気中の水分量が違うから色が違って見える。僕たちの目には」

「うんうん。」

「俺、この話聞いてびっくりしちゃって。でもなんとなく嬉しかったんだよね。一日のはじまりとおわりって、実は一緒なんだって。それは何故かわかんないんだけど。毎日、同じはじまりとおわりを見て、時に心動かされるって不思議。一緒だけど、違うもので、それぞれを感じられる。贅沢だよなあ」

トオルは少し寂しそうに、海を見ていた。その横顔を見て、私も海と空の境界線を見つめた。

ふと考える。

この境界線を水平線と呼ぶならば、私と目の前の世界の境界線はなんと呼べるのだろう。本来そこにはっきりとした線はなく、曖昧で、地続きで、何なら同じなのかもしれない。スタートラインだって、だれかに引かれた線を「スタートライン」と認識するから、その意味を持つ。世界は私が作った世界でしかなく、そこには本物も噓物もない。なのに、目の前の出来事が世界のすべてだと時折勘違いしてしまう。きっと私は、私という人間を人間たらしめるために、だいぶ辺鄙な回り道をしていた気がする。

私たちはきっと、知らず知らずのうちに敢えて境界線を引くことに精一杯になっているのではないかと思った。

線を引けば、圧倒的な分かりやすさが手に入る。その一方で、余白やリズム、曖昧さが失われて、不自然なものと化していく。逆に線を引かなければ、ゆらいでもいい、そよいでもいい、ないでもいい、進んだり止まったり、ぜんぶ自然に運ばれていく。世界は、思っているより私に無関心だし、だれかが引いた線を信じるなんて馬鹿らしい。

「線に立つのは、もうやめる」

いつの間にか、つぶやいていた。

「うん」

トオルの声だけが、波の音にまじって聴こえてきた。

海は、ただ、やさしく凪いでいた。

著者 さいとうみゆう
プランナー/ライター/編集者。地域おこし協力隊として淡路島で暮らしながら、フリーランスライター/プランナーとしても活動。「分かり合えないけど分かり合いたい」人間の切なる思いから生まれた、面倒くさいけど愛おしい【言葉】が大好き。
コーヒーについて
朝ギリギリに起きて急いで準備して小走りに家を出る。いつもはそんな余裕のない朝だけど、今日は朝日と共に少し早めに起きてみる。理想の一日の過ごし方についてゆっくりと想いを巡らせながら飲む朝のコーヒーは、優雅な気持ちになれる特別な一杯になるはず。今回は、エチオピアをメインにしたフルーティーな味わいのブレンドを深煎りに、厚みのあるリッチな口当たりを表現しました。
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