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新しい未来を思い描く時に

新しい未来を思い描く時に

窓を開けると、風が新しい居場所を見つけたようにぶわりと部屋に入り込んできた。

ベランダのスリッパに指先を滑り込ませ空を見上げる。冬の朝は誰の元にも平等に冷たくて、咲(さき)はそのことに少しほっとする。

ステイホームをきっかけにコロナ禍以降も在宅で仕事をするようになり、季節の変化を感じる場面が失われつつあった。

電車に揺られて出勤している頃はまだ、コンビニのコーヒーの売れ行きがアイスからホットに移るタイミングを自然と掴めていたというのに。

換気を済ませるとデスクに戻り、いつもの様にパソコンを開く。業務前に軽くSNSの巡回をしていると、クラリネットを構えた女性の写真と共に華やかな告知が飛び込んできた。

「【お知らせ】今年も開催します!新春クラシックコンサート 早川茉莉 凱旋公演」

斜めに傾けられたクラリネットと美しい女性の微笑み。胸の底に重しが乗るような感覚がして、咲はその投稿の「詳細を見る」の隣の「close」をクリックした。

ぱっと画面が切り替わり、今度は赤ちゃんを抱いた夫婦の写真が現れた。

「あけましておめでとうございます!我が家の鈴花ちゃんは六ヶ月になりました!」

写真の中でピースサインをしているのは亜希子だった。幸せいっぱいなその写真に、思わず笑みがこぼれる。いいなあ。そう思って咲は迷わず「いいね」を押した。家庭を築くことを「いいなあ」と思ったのではない。勝負の世界からドロップアウトしたことを「いいなあ」と思ったのだ。亜希子はもう、夢を叶えた人を羨んだりしなくていい。

SNSは、それぞれの現在地点を確認する作業だ。そして咲の場合、捨てきれない未来をいつまでも引きずる些細な理由でもあった。

***

咲と亜希子、そして茉莉は、高校の同級生だった。

中学からクラリネットを始めた茉莉と亜希子とは違い、咲は元音楽講師の母の影響で九歳からクラリネットを始めていた。

母は河色市音楽団、通称「楽団」という地元の音楽サークルに所属しており、咲も幼い頃から合奏に顔を出した。大した経歴ではないものの、大人と共に演奏してきたことは幼い咲の自信を過剰に仰ぐには充分な理由だった。

A高の吹奏楽部で出会った三人はクラリネットパートで練習を共にし、絆を深めていった。ファースト兼パートリーダーが咲、セカンドは茉莉、サードが亜希子だった。

「咲ちゃんはいいなあ。早くにクラリネットに出会ってるんだもん。私も早く演奏の楽しさを知りたかったよ。私も咲ちゃんみたいに上手くなりたい」

茉莉はよくそう口にしたが、幼少期からピアノを習っていた茉莉は優れた音感を持っており、練習の虫だったのもあってメキメキと上達していった。その真っ直ぐさに咲も感化され、学校の楽器を借りて休日に茉莉と二人で川辺で練習したこともあった。

茉莉の屈託のない笑顔と、合奏の時の真剣な表情が咲は好きだった。

「レッスンに通うことにしたの。地元の音大を受験してみようかなと思って」

茉莉がそう言った時、心から応援できたのは、咲が県外の音大に進学することが決まっていたからだ。

そして、茉莉が口にした大学名よりも自分の進学先の方がほんの少し格上だったから。

「茉莉なら行けるよ!がんばって!」

「受かったらクレープ奢ってあげる!」

亜希子と咲はそう言って茉莉の背中を押した。結果茉莉は見事合格。三人は「大人になったら必ずまた一緒に演奏しようね」と指切りをして、別れた。

「『河色市A高出身の音楽家』って見出し見た時、最初は咲のことかと思ったの!」

亜希子から咲へそう連絡があったのは社会人四年目の春だった。音大を卒業したもののステージに立って生きる道のりは厳しく、一般企業に就職していた咲は、自分以外の人も音楽から離れているものだと当たり前のように思い込んでいた。

だから亜希子が送ってきた地元紙のweb記事にクラリネットを構えた茉莉のインタビューが載っているのを見て、しばらく呆然としてしまった。

『諦めない大切さ』、『試練を楽しむこと』。よく言われるようなありふれた言葉は目を滑ったが、茉莉の変わらない笑顔には心臓を乱暴に掴まれ、咲の視界はぐらりと揺れた。

「ねえ見た?茉莉、プロになったんだね!すごくない?正直、高校の時はちょっと上手いなって程度だったのに!でもまあ、努力家だったもんね」

亜希子の興奮した声が受話器ごしに響く。動揺してうまく返事のできない咲に亜希子は「お祝いしたいけど、もう遠い人って感じだよね?連絡も取ってないしさあ〜」とからから笑った。

「咲ともしばらく話せてなかったくらいだもん。咲、どうしてる?元気にやってる?」

「うん︙︙元気だよ」

「そっか良かった。ああ、茉莉と咲に会いたいよ〜!あの頃の思い出話を沢山したいよ!」

やけに無邪気な亜希子の言葉も、動揺している咲の頭には全然入っていかなかった。

そしてお互いの近況を簡単に話した後、亜希子は再び思い出したように「はあ、でも茉莉には驚いたなあ」と呟き、こう零したのだった。

「なんか︙︙嬉しいけど、嬉しいのに、なんだろうこの気持ち。なんか、すごいね。茉莉ってすごいね。それに比べて私なんて全然ダメだなあ︙︙」

少しの沈黙が流れた後、亜希子は「やば、仕事戻らないと。じゃあね!」と急ぎ足で電話を切った。

咲の胸の中には言葉にならない違和感がぼんやりと残っていた。

***

隣の市に住む母から宅急便が届いた。

地元に戻って就職してからも、一人暮らしは続けたいと言って実家には戻らなかった。三十になっても母にとっての娘はまだ放っておけない存在のようで、こうして季節ごとに果物や野菜、お菓子やパンが贈られてくる。

段ボールから食品を出して冷蔵庫に移していると、端の方に見慣れないものがあるのを見つけた。何だろうと思い腰をかがめて手に取ってみると、それは白い袋だった。指で表面をなぞりながらパッケージを見つめる。

「コーヒー?」

確かにコーヒーは好きだが、これまで送られてきたことはない。同封されていたメッセージカードには短く「おいしいコーヒーを見つけたからおすそ分け!」とあった。こんな寒い日にぴったりだと、咲はそう思い白い包みをデスクの上にポンと置いた。

キッチンに立ち、ケトルでお湯を沸かしながらお礼の電話をかける。

「もしもし、お母さん?荷物届いたよ。ありがとう」

もう届いたのねえ、と母の明るい声が耳に触れる。ステイホームでしばらく顔を見ていないが元気でやっているようだ。ケトルからは小さくシューシューと空気の回る音がする。

母が「そういえば」と切り出した。

「茉莉ちゃんのコンサートがあるの知ってる?亜希子ちゃんと一緒に行くの?」

忘れかけていた足に絡む枷の存在に再び気づいたように、咲は短く息を呑んだ。平静を装いながら「行かないよ?年度末は特に忙しいから」と答えたが、それはどこか自分自身に言い聞かせているような口ぶりだった。

「そうなのね。私も楽団でそろそろ定期演奏会の時期なの。今年は木管パートの人数がちょっと足りないのよ。咲、ちょっと付き合ってよ」

「ええ?無理だよ。もうしばらく吹いてないもん」

「ちょっと練習すればすぐ勘を取り戻すわよ」

大学を卒業してからというものの、クラリネットはケースに静かにおさまってクローゼットの隅を住処としていた。昔ほど吹けなくなっている自分を直視したくなく、気分転換に奏でることもなかった。

咲はふと、気になったことを尋ねてみた。

「お母さん、あのさ。自分は才能があるって思う?」

「才能かあ。あったらこんな普通のおばさんになってないわね」

母は笑う。「才能がない」。どんな世界でも、その事実はプレーヤーにとって重荷になるはずだ。

「才能がないと気づいた時点で音楽を辞めたくならなかったの?」

音楽を続けていく中で最も咲を苦しめたもの。それは競争心だった。競争心は咲の感情を振り回し、本当はそこにあるはずの優しさや穏やかさを奪っていく。競争心を手放してしまえば楽になれると咲は知っていた。けれど咲は音楽を辞めてしばらく経った今もそれを手放すことがどうしてもできなかった。亜希子のように人の成功を喜べたらどんなに楽だろう。

忘れもしない、あの日「それに比べて私なんて」と電話で言った亜希子。咲には手にとるように分かった。きっと亜希子は自分の中の違和感に蓋をして、「祝福し応援する」という安全なポジションを手に入れた。

亜希子は自分の心に素直だった。胸の内をさらけ出すのが苦手な咲にはそれが難しい。咲にとって茉莉を認めることは、自分の「今」を否定することと同じだった。だから咲が本当に羨ましいのは、茉莉ではなく亜希子の方なのかもしれない。

すると母から思いがけない言葉が返ってきた。

「やめたわよ?何度も」

「え?」

「だってあんたを産んだり、おばあちゃんを看取ったり、いろいろあったじゃない。音楽なんて続けてなんかいられないわよ」

「でも、今も続けて︙」

「そうよ。一度やめたって、また始めたらいいのよ。どんな世界でも、最後に笑うのは『続ける人』なんだから」

「続ける人︙︙」

母は何でもお見通しだというようにふっと笑う。

「だから咲、あなたもたまには楽団を覗いてごらん」

***

電話が切れた。ケトルからは白い湯気があがり、ふわふわとキッチンを漂っている。

お気に入りのティーセットを取り出してコーヒーを炒れてみる。湯を注ぎ、香ばしい香りが舞い上がった。カップから伝わるぬくもりを手のひらに感じ、咲の音楽への想いもまた熱を取り戻していく。

ソファに腰掛け、一口、コーヒーを口にしてみた。日頃から肩が無意識に強張っていたのだろうか、するりと力が抜けていった。あたたかいコーヒーは、まるで香りごと食べているような深い味わいが心地よい。長い間こういう時間を求めていたような、そんな気がした。

カップをことんと置き、窓の外に目をやる。ゆるやかな冬の風に吹かれた遠くの街路樹がしなり、静かに揺れている。窓辺には柔らかな陽が斜めに差し込んでいた。

「︙︙すごいな、茉莉は」

ずっと思っていたことが言葉となって零れた。今もステージに立つ茉莉。強烈な劣等感から、彼女の成功を咲は素直に受け入れられなかった。茉莉の音楽の才能が眩しかった。けれど、茉莉の本当の尊敬すべきところは才能ではなかった。茉莉は「才能ある人」である以前に「続ける人」だったのだ。音楽を愛し、努力を継続する人。咲が長い間見失っていた、最も大切なこと。

それに気づいた時、咲は心から茉莉を認めることができた。そして思う。自分も、なれるかもしれない。「続ける人」になるのは、まだ間に合うかもしれない。

コーヒーカップに一口、また一口と口づけながら、咲はスマホを手に取った。ラインの一番上には、先ほどまで電話していた母から「たまにはのんびりね!」とメッセージが来ていた。咲は微笑んで、一言だけ返信をした。

「私も、楽団に顔出してみようかな」

コーヒーに湯を注ぐように、一度は静まった想いにも熱を吹き込めばいい。窓の向こう側、風に吹かれた一枚の木の葉が、日差しの中を羽ばたくように螺旋を描いていく。

一人で部屋で過ごすこの時間を、冬の朝の美しさを、咲は新しい日だと思った。そして生活は続く。未来は、「今」を受け入れることから始まるのだ。

コーヒーの深い味に心を休めながら、咲の胸にもまたもう一度演奏する意欲がこみあげてくるのだった。

著者 みくりや佐代子
広島県在住のエッセイスト。甘さと一緒に切なさの残る読後感の文章は “微炭酸系”と称されている。著書『あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる』/共著『文と生活』
コーヒーについて
新しい一年の始まりはいつもワクワクするもの。新しくチャレンジしたいこと、新しくはじまる生活に新しい人との出会い。今回はそんな新しい未来を思い描くコーヒータイムにぴったりの爽やかでフレッシュな気持ちで向き合えるブレンドにしました。初日の出の明るくて赤い色をイメージして、チェリーやベリー系の豆を浅煎りに焙煎、フルーツの瑞々しく甘酸っぱい印象に仕上げました。クリーンでまっさらな味わいのコーヒーがあなたの新しい一年の門出を明るく後押ししてくれますように。
ものがたり珈琲
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