タップで読む

新しい世界へ旅立つ前に

新しい世界へ旅立つ前に

 アイツが、小説家になっていた。僕はそれを、毎朝なんとなく見ているニュース番組で知った。伸びきった髪に、サイズの大きいスーツ。かっこいい大人とは言いきれない見た目のアイツが、バチバチと光るカメラのフラッシュを、疎ましそうに見ていた。そんな不愛想な対応も、世間が求める小説家のイメージにぴったりだったらしい。

その場の誰もが彼のことを褒めて、アイツは形ばかりの会釈をする。それを見続けるのが何故か苦しくて、いつもより早く職場に向かったのだけれど、どちらにせよ上司から

「そういえば同じ大学出身じゃなかった?」

と言われ、アイツのことを考え続けてしまった。

モヤモヤとした気持ちは、残業を終え、帰宅しても続いている。スマートフォンを見れば大学の同級生達がアイツを武勇伝扱いしていた。こいつら、どちらかといえばアイツを「変なやつ」扱いをしていたくせに︙︙。これほどクルリと手のひらを返すなんて恥ずかしくないのだろうか。さらに、話題のニュースは探さなくても耳に入るご時世だ。僕の日常はしっかりとアイツに占領されている。アイツは僕のことなんて覚えてすらいないかもしれないけれど。

僕とアイツは大学で出会った。理由なく選んだ席の隣で、マニアックな小説を、文字通り食い入るように読んでいた。そんなに急いで読まなくたって小説は逃げないのに、まるで空腹のフードファイターのようだった。

それだけなら「変なやつだ」と無視したのに︙︙驚いたのは、本のタイトル。それは僕が尊敬する作家のもので、なかなか手に入らないデビュー作だった。まさか、同志に出会えるなんて!くすぐったいような嬉しさを覚えて、僕から意気揚々と話しかけた。

僕もアイツも社交的な人間ではなかった。だからこそ、するすると仲良くなれたのかもしれない。きっとお互いに「初めてできた小説について語り合える身近な友達」だったから、毎日のようにどの作家のどんな部分が好きかを語り合い、おすすめのものをシェアしあった。慣れればアイツは話しやすい性格で、そのうち僕は小説を書いているとか、文学賞に挑戦しているとか、誰にもうちあけていない秘密の話も自然にしていた。

そういえば、夏目漱石や芥川龍之助などの名だたる文豪達も、木曜会と称して毎週のように議論を交わしていたらしい。人間関係をこじらせていた若かりし僕は「そんな時間があったら小説のひとつでも書けばいいのに」と思ったのだけれど、似た趣味をもつ友達との時間はなによりも楽しい。それを知ってしまうと、むしろ周囲に愛想よく振舞わなかった昔の自分が、可愛げのない餓鬼に思えて恥ずかしくなった。

この経験は、その後の僕に大きな影響を与えたと思う。大学生の日常は目まぐるしく変化する。アルバイトを始めたり、ゼミに参加したり、何か新しいことをするたびに一日の時間配分が変化し、人間関係が増え、生活が変わっていく。

そうして、僕は忙しい日々に圧迫されて、だんだんと本を読まなくなり、就職活動を終える頃にはアイツと疎遠になった。

アイツに何か嫌なことがあったわけでも、劇的なきっかけがあったわけでもない。むしろアイツと関わる前の僕だったら、人との距離感もつかめず、もっと問題ばかり抱えていただろう。むしろ感謝しているほどなのだ。

それでも、気が付いた時には僕らの関係は昔とは違うものになっていた。いくら愛想がよくなったとはいえ、アイツとの間に別の話題を見いだせるほどの力は備わっていなかった。

アイツの受賞を喜べないのは、こういう僕の整理しきれない気持ちのせいだろう。報告がほしかったとは言わない。もちろん、あってもよかったのだが、僕だってアイツに報告していないことがたくさんある。

ただ、僕がなんとなく辞めてしまった執筆活動をアイツは今も続けていた。コツコツと変わらずに続けて、今はもう、誰もが認める小説家になったという事実に、どこか悪いことをしたような気持ちを抱えていた。変化しないというのも、難しいものなのに。

そういえば最後にアイツと喋ったのは、就職も決まり、卒業を目前に控えたタイミングだった。

「最近は何か読んだの?」

と聞かれ、咄嗟に何も言えるようなものがなかった僕が

「バタバタしていて読めていないんだよね」

と返事をすると、アイツは特に表情を変えることもなく、曖昧な相槌と共に

「器用だからなぁ」

とつぶやいた。少しだけ早口で、無関心で、言葉をぎゅっと丸め込んで、ぼとっと落とすような喋り方で。

家へ帰り、なんとなくSNSを見る。やっぱり、一番目に入る話題はアイツの話だ。令和を代表する文筆家とか、彗星のごとく現れた新人作家とか、色とりどりの言葉で表現されている。インタビューの中で面白かった部分を切り抜き、短い動画で投稿している人もいた。

「受賞、おめでとうございます。この喜びを伝えたい人はいますか?」

アイツのことを考えていたら、指を止めていたのか、自動再生が始まった。ハキハキとしたインタビュアーの声が広がる。

「︙︙とくにいません」

アイツらしい感想だ。そもそもアイツが小説賞を狙っていたと知っている人がどれだけいるのか。書いていることすら知らせていないのだから、受賞の報告をしたい人もいない。

ただ、そんな反応をされては、インタビュアーも仕事にならない。案の定、その場には微妙な空気が漂っていた。アイツもその雰囲気を察して、居心地悪そうに首をかしげている。

「そうですか。執筆中に意識されたことや、受賞するために意識されたことはありますか?」

「意識ですか」

「はい、審査委員会からは主人公の心理描写がとくに秀逸だったと評価されていますね。その辺りは意識されているのでしょうか」

「ああ︙︙、ありがとうございます。とくには、ありません」

そう、こういうやつなのだ。悪いやつではないのだが、自分の中に何かしらの軸があり空気は読めない。申し訳なさそうにしているくせに、取材に協力できるほどの調和性がないのだ。

これにはさすがのインタビュアーも面食らったのか、会場はさらにどんよりと曇り始めた。

「ただ、小説を書く時は“不易流行”というのを意識しています」

会場の空気を変えたのは、アイツがポンと放った言葉だった。不易流行。松尾芭蕉が奥の細道の中で説いた、日本文学の形式に関する理念のことだ。昔、アイツと話したことがある。

「解釈の仕方はいろいろとある言葉ですが、僕は新しさを求めて変化をすることが世の常であると解釈しています。

“不易”――変わらないでいれば、自分らしさと地位を確立できる。でも、本当に変わり続けないでいると、世の中の価値観とあわず置いていかれてしまう。

“流行”――世の中にあわせて変われば、たくさんの人に応援してもらえる。ただ、変わり続けるだけでは気に留めてもらえず、忘れられてしまうと僕は思うんです。

僕は器用ではないので、小説を一冊書こうと思うとすぐに引きこもって、変わらないまま続けてしまいます。でも、それだといけないというか︙︙。とにかく、“不易流行”。変えるところと、変えないところを、ちゃんと見極めるように意識しています」

アイツが話終わった後、会場はしんと静まり返っていた。そりゃあそうだろう。偏屈なキャラが定着しつつあると言っても、さっきまでボソボソと短文でまごついていたやつが、流暢に喋りはじめたのだ。この様子を見て、「いやいや、昔から変わってないよ」と笑えるやつが、僕以外にいるのだろうか。

その後、二時間ほどあったインタビューはすべて見つくした。結局アイツが口を開いたのは数回程度。見どころは抜粋されていた部分くらいしかなかったのだけれど、なんだか答え合わせをしているような気持ちになって、ここ数日のモヤモヤが晴れていった。

“不易流行”。変わった僕が正しいのか、変わらなかったアイツが正しいのか、そんなの誰にもわからない。

だから僕はきっと変わり続ける自分に自信が持てなくて、一時期の僕を好いてくれていただろうアイツにどんな顔で接したらいいのかわからなかったのだ。そもそも、変化が自覚できるとは限らないのに。

 僕がアイツを好ましく思いながらも疎遠になってしまったように、アイツが意識しても変わらず小説ばかり書き続けているように、コントロールできない部分もある。そんなどうしようもなさを理解した上で、進んだ先が正しかったのか判断するしかないのだろう。

ここまで考えて、僕はふうとため息をついた。久しぶりに、思う存分、内省できた気がする。不思議なもので、ここまでしっかりと自分について整理をして正体を突き止めたら、いつの間にかモヤモヤした気持ちはスッと消えてなくなっていた。まるでアイツと会話したような、サッパリした達成感。それが、あまりにも心地よくて、別々の未来に進んだとしてもアイツと関わることができてよかったと思わずにはいられなかった。

僕は最寄り駅の本屋で買っていたアイツの小説を取り出す。あれだけ悪態をついていたのに、結局、買ってしまった。熱い珈琲でも淹れて、今夜、一気に読み切ってしまおう。

ページをめくると、いかにもアイツらしい主人公が、昔聞いたことのあるような悩みを吐きだしていた。なんだこれ。「変わる努力をした」とインタビューで言っていたくせに。

気が付いたら、笑っていた。愚痴や文句を並べていた僕はもういない。少しだけ、大事なものとお別れするような寂しさもある気がするけれど、その気持ちをぐいと押し込む。読み進めた先に、理想的な自分が待っていると信じて。

著者 中馬さりの
一九九二年、東京生まれ。文化女子大学卒業。アパレルメーカー勤務後、二〇一七年に執筆業で独立。現在はWeb文芸誌への寄稿やプロモーション用小説の執筆など広く活動。旅暮らしの様子はYouTubeで発信中。
コーヒーについて
卒業、転職、引越し、留学、起業、旅。自分の知らない新しい世界へ飛び出す時はいつも、ワクワクした気持ちの中にも、少し不安が残るのではないでしょうか。今回は、そんな少しの不安を消して、明るい未来に背中を押してくれるコーヒーに仕上げました。華やかで明るい感じのエチオピアのウォッシュドをメインに、コロンビアの豆で力強さを表現したブレンドです。
ものがたり珈琲
Instagram Twitter



左矢印