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ふと気づいた優しさに心温まる時に

ふと気づいた優しさに心温まる時に

 金曜日の中央線はいつもより人が少ないようだ。

 座席は一個ずつ等間隔で空いている。人、リュック、人、バッグ、人、手提げ袋︙︙。空いた座席には荷物が置かれていて、人の代わりを担っている。

 午後八時過ぎ。いつもは帰宅する人たちで座ることもできないのだが、華金のこの時間帯は電車内の人もめっきり減る。その分、十一時過ぎから終電までの時間はお酒に呑まれた上機嫌な人たちで溢れかえる。一週間が終わったことへの疲れを微塵も出さず、週末が始まることへの喜びを全面に出して、今日も中央線快速は夜を走る。

 僕はそんな電車に揺られながら窓の外を眺めていた。流れていく景色はずっと変わっているようで、どこも変わっていない。風俗のネオンライトは眩しすぎるし、コンビニや牛丼屋の看板の色にも見飽きてしまった。冷たい雑居ビルも、色褪せたラブホテルも、遠く向こうにぼんやりと見える東京タワーの灯りも、全部が全部、何一つ変わっていない。

この大東京に放り込まれて今年で八年目。自分から飛び込んだにも関わらず、今では受動的な毎日を送っている。同じ会社に勤め、同じ部署で働き、同じ仕事をこなす。それが八年。一年が終わったとき、安堵と溜息がいつも入り混じる。今年も一年やり遂げたと同時に、来年また同じ一年がやってくる。その繰り返し。ループして、ループして、八年。

気づいたら、今年で三十歳の節目の年になっていた。

ふと我に返った途端に扉が開き、停車駅で客が入れ替わる。その様子を見ているとポケットのスマホが振動する。彼女からの【日曜なにする】のLINE通知。

僕の週末は大体この六文字から始まる。彼女と過ごす週末も何回目だろうか。

毎週通っていたバーでいつも隣に座っていた彼女。小動物のような可愛らしい見た目でウイスキーをロックで飲む姿に惹きつけられて、いつの間にか好きになって、気づけば恋人になっていた。

今年で付き合って五年、同棲を始めて三年半。一緒にいればいるほど、なくなっていくことも多い。感謝を伝えること、優しさに気づくこと、愛情を知ること。目の前にある当たり前を一個ずつ削ぎ落としていったら、たった数文字で会話することも容易くなった。

【どうしよか】【明日晴れかな】【あー曇りだね】【じゃどうしよ】

六文字以内のラリーが続いて、ループして、ふりだしに戻って。こんなダラダラした会話も嫌いじゃない。どうでもいい会話、無駄なやりとりが積み重なって一日の隙間が埋まっていく。それと同じように、短い文が次々と連なってスマホの画面を埋めていく。

【なんかさ、特別な日にしない? なんとなく】

急に長い文章がきて、呆気にとられる。突拍子もない提案にちょっとだけ動揺したものの、最後の【なんとなく】が光って見えて、【いいね、よくわかんないけど】と返した。

僕はそう文章を打ちながらもあることを考えていた。何でもない日曜日を特別な一日にするためのプラン。そのままスマホでAmazonのアプリをタップして、ほしい物リストを開く。そこにあった商品を上から順にカートに入れ、日付・時間指定をして購入を完了する。満足げにアプリを閉じて外に目を移すと見慣れた景色が広がっていて、【今、駅】と彼女にLINEする。

自宅に帰るとすぐに彼女は僕に尋ねてきた。

「日曜どうするの? 任せてって言ってたけど」

「Amazonのほしい物リストを全部ポチったんだ。これで明日を特別な日にしよう」

僕はスマホの画面を自慢げに彼女に見せつけた。

千ピースのジグソーパズル、きのこ栽培キット、ハードカバーの小説、イギリスのボードゲーム、ホットサンドメーカー、コーヒー豆︙︙。下に下にスクロールする僕の顔とスマホを交互に見る彼女。その真顔が笑顔に変わるのに五秒もかからなかった。

「そうゆうことね。日曜日は配達の人が特別な日にしてくれるって」

「うん。日付指定を明後日の朝にしておいたから、ピンポンが目覚ましになるよ」

「本当に? 大丈夫?」

「大丈夫」

 彼女は笑って明後日の方向を見る。

「いつもの週末が、ちょっとでも変わるといいな」  

 日曜日の朝、ピンポンが鳴ってドアを開けると配達のお兄さんが小さな袋を持って立っていた。判子を貰ってすぐに帰ろうとするお兄さんに「あれ? これだけですか?」と思わず聞いてしまう。

お兄さんはぶっきらぼうに「はい、そうですね」と足早に玄関から去って行った。抱えきれないほどの大量の荷物を期待していたが、実際に届いたのは片手で持てるほどの袋だけ。僕は部屋に戻って文庫本サイズの白い袋を彼女に見せる。今起きたばかりの格好でソファに座る彼女は僕を見て、

「なにそれ」と四文字で尋ねる。

僕はそれに対して負けじと、「え、コーヒー」と返す。

焦りを悟られないように急いでAmazonの配達状況を調べると、特別な日にするはずであった数々のアイテムは未だ配達中であった。

そう、僕は日付指定を完全にミスったのだ。その事実を彼女に打ち明けるとキャハハと笑われた。昨日の僕のドヤ顔と気取った決め台詞を余すところなくいじられた。

僕はそんな彼女に対して何も言い返すことができなかった。何が『これで明日を特別な日にしよう』だ。CMにでも出演したつもりか。昨日のことを思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしい。

自分の情けなさが身に染みて寒気さえしてきた。どんどんネガティブになって自己嫌悪に陥る僕に向かって、彼女は明るげに言った。

「いいじゃん。コーヒー、飲もうよ」

 僕にはその言葉が特別な日の始まりの合図に聞こえた。彼女の気遣いではないシンプルな言葉に救われた気分になる。こんなことで笑ってくれる彼女が、こんなことで笑うことができる今日が、ちょっとした奇跡の巡り合わせなんじゃないかと思えた。

 すっかり眠気も覚めて電子ケトルでお湯を沸かし、その間にゆっくりと豆を挽く。毎朝僕が担当しているコーヒー当番だが、今日だけは何となく緊張感がある。このコーヒーはいつもよりちょっとだけいい豆で、味わい深さを感じることができる。豆を挽くゴリゴリとした音を聞きながら、その匂いをじっくりと堪能する。彼女の伸びの声やテレビのワイドショーの賑やかしが相まって、朝特有の鬱々とした気分が吹き飛ばされる。

電子ケトルがカチッと鳴って、お揃いのマグカップに挽いた粉とお湯を注ぐ。マグカップから出た湯気がキッチンを細々と温め、後から匂いがたっぷりついてくる。

テーブルにはトーストと目玉焼きとウインナー、それとコーヒー。キッチンマットの上の景色はいつもと同じだけど、コーヒー豆だけはいつもと違う。

「いただきまーす」の声も少しだけ元気に、いつもとは違うことを強調するかのように発声する。同時にコーヒーを飲み、顔を見合わせる。

「え、美味しい」

「え、うま」

思わず出た一言に二人して笑ってしまう。口に運んだ瞬間に広がる甘い香りが新鮮な気分にさせてくれ、程良い酸味がスパイスのように混ざり合う。

気の利いた食レポを彼女に伝えようとしたが、二口、三口とカップに口つける彼女にそんな野暮なことは必要ないと思った。言葉を交わさないで通じ合うことが五年の歳月の結晶のような気がして、この時間をただただ大切にしたかった。

「あーあ、本当ならホットサンドだったのになあ」

 トーストを齧る彼女。

「恋愛小説でも読みながら優雅に」

 スマホをいじる彼女。

「この後はジグソーパズルかな? ボードゲームかな?」

 コーヒーを啜る彼女。

 黙って俯く僕を見て、彼女はイタズラに笑う。

「うそうそ! この一杯で何だか満足しちゃった。私って単純」

 欲しい物リストをひっくり返して、全部が届いたときの絵を想像する。もしかしたら、有意義な時間を過ごせたかもしれない。最高の一日を過ごせたかもしれない。けれど、そんなことをせずともこの笑顔を見ることができた。幸せがやってきた。これが特別な日だと思えたら、何だか全部どうでも良くなった。

「全部届いたとしても、全部できなかったよね」

「うん。ジグソーパズルなんて私、飽きちゃうし」

 いつもより会話が弾む食卓に、大それたアイテムは必要なかった。カーテンから漏れる光が二人の間を差して、部屋中を照らす。眩しそうな目で微笑む彼女は、

「さて、なにする?」と一言。

 彼女の短い言葉は陽だまりのように温かく、僕のことを包み込んだ。

 たった六文字でも伝えられることはある。長く一緒にいるほど、短くていいこともある。足りないくらいが、ちょうどいいことだってある。

僕は彼女の何でもない言葉に幾度となく救われていたことに気づいた。どんなときでも自分に温かく寄り添ってくれる。よくないとき、落ち込んだとき、ひとりになりたいとき。彼女はシンプルな言葉で愛を伝えてくれた。それは他人から見たら愛とは程遠いかもしれない。でも、僕にとっては世界を変えてくれるような、とてつもない愛情の証なのだ。

「大丈夫」

「そんなことないよ」

「ありがとう」

 

僕らには『愛してる』とかそんな小っ恥ずかしい台詞は一生吐けない。『好き』だってしばらく言ってないかもしれない。恋愛ドラマに出てくるようなキュンとする台詞なんて一つもない。でも、そんな言葉が必要ないくらい、僕たちは短い文章に想いを込めているつもりだ。照れ隠しなのかもしれない。本当はちゃんと伝えたいのかもしれない。

大人だから、とか、長く付き合っているから、とか屁理屈をこねて正当化したいけど、それでもしっかりと愛を伝え合っているんだと主張したい。

たった数文字が、僕と彼女を繋いでくれる。

たった一言で、僕と彼女は通じ合える。

たったそれだけで、僕と彼女は幸せになれる。

どこにでもある日常を、ちょっといい日常に。

予定通りにいかない人生も、思い通りにいかない自分の不甲斐なさも、コーヒーを飲んだら全て忘れてしまった。そして、僕の目の前には彼女がいる。その事実が、これから先の毎日を生きていく希望になっているのだ。

 明日も月曜日はくる。明後日は火曜日、明明後日は水曜日、またいつも通り一週間がやってきて、七日後はまた日曜日。ループして、ループして、また同じような日々がやってくる。

 そんな毎日があるからこそ、いつもより特別な日が生まれるのだ。それは友達の誕生日を祝う日かもしれない。恋人に愛を伝える日かもしれない。家族との時間を大切にする日かもしれない。

一生に一度、一年に一度、一ヶ月に一度、一週間に一度、それぞれの特別がそれぞれのタイミングでやってくる。無限ループの中にいると思った今日は、思わぬ失敗をきっかけに特別な日になった。僕にとっては、そう思えただけでかけがえのない一日に感じた。

きっと彼女も同じ気持ち︙︙と言いたいところだけど、こんなことを彼女に言ったら笑いながらこう言うだろう。 

「そんなことないよ?」

 月曜日の中央線はいつもより人が多いようだ。

 週初めは出社する人が多いようで、電車内は眩暈がしそうなほど混雑している。駅で停まって降りて、停まって乗って、の繰り返し。人が減りそうな気配はない。

 午後八時過ぎ。残業をしてこの混み具合なのだから疲労感は募る一方だ。他の人たちも同じようで、当たる肘や肩からイライラが伝わる。週末が終わってしまったことへの悲壮と一週間が始まったことへの絶望を乗せて、今日も中央線快速は夜を走る。

 僕はそんな電車に揺られながらスマホを眺めていた。人と人との間の僅かなスペースで、体を縮こませながら画面を指でなぞる。Amazonの配達状況を見ていた僕は、昨日届かなかった全ての荷物が配達完了になっていたことに安堵した。在宅勤務をしている彼女が受け取ってくれたのだろうとLINEする。

【受け取ってくれた?】

【うん!】【てか、多すぎ】【めっちゃ邪魔!笑】

 ポン、ポン、ポンと連投する彼女。

【え︙︙】【ごめん】

 戸惑って、とにかく謝る僕。

【ほんとバカだよね】【日付間違えるなんて】

 ちょっと怒っているのかもしれなくて、

【ごめん︙︙】

 また謝る僕。 

【嘘だよ】

【謝らないで】

 また言葉を連ねる彼女。

【だって、私を楽しませようとしてくれたんでしょ?】

 ちょっとだけ時間が空いて、

【ありがとう】

 

この五文字から、僕はループする毎日を笑って始められそうだ。

福田透
一九九二年、東京生まれ。西荻窪在住。中央大学文学部を卒業し出版社に勤務後、芸能事務所へマネージャーとして転職。現在はマネージャーとフリーライターの二足のわらじを履きながら、小説の執筆活動を行う。
コーヒーについて
頑張った資格試験の夜に大好きなご飯を作って待っていてくれた時。疲れてソファで寝入ってしまった自分に毛布がそっとかけられてた朝。気にかけてくれる人の優しさに気づいた時、ほっと温かい気持ちになります。今回のブレンドは、ブラジルのナチュラルの豆をメインに、とろっとした柔らかい質感と生チョコレートの味わいが、ほっとする甘さを感じられる中煎りのコーヒーに仕上げました。一口飲むとふっと肩の力が抜けて、穏やかな気持ちになれる優しい一杯です。
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