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ごめんねの気持ちと共に

ごめんねの気持ちと共に

この間まで雨音ばかりだったのに、遠くからセミの声が聞こえてくるようになった。

もうすっかり夏なんだということを思い知らされながら、日焼け止めを塗って、日傘を持って家を出る。同じ方向へ向かうスーツ姿の男性たちも、気づけばジャケットを脱いですっかり夏の装いになっていた。

まだ朝なのにこんなに暑いなら、きっと日中は大変なことになるんだろう。今日みたいな日は洗濯物がよく乾くのになんて考えながら、何も干してこなかったベランダを想う。

社会人になってから、洗濯をするのは週末が中心になった。

夜帰ってきて洗濯機を回すのはなんだか申し訳ないし、早起きして洗濯をするほどのガッツはない。次のボーナスで乾燥機を買おうかなぁという悩みも、もう何十回繰り返したかわからなかった。

「ねぇー、カズサから返信来ないんだけど!」

すれ違う女子高生たちがワッと盛り上がる。

「そのうち来るって」と笑う子、「あれマジで送ったの?」と驚く子。弾けるように飛び交う三者三様の反応に、「だってさぁ、会いたいじゃん」と声の主が甘えた声を出す。

カズサというのは彼女の恋人か、好きな人か。信号が変わって青春が去っていく。わたしは地下鉄の入り口に飲み込まれて、やや強すぎるくらいの冷風を手に入れた。

わたしも、カズサという名前を知っている。思い出そうとするまでもなく思い出せる、高校時代のクラスメイト。

橘一沙は、わたしの憧れの女の子だった。

高校一年生の夏。制服が少し馴染んで、それでも初めての夏服にドキドキしていたくらいの頃。その日は週に一回だけの料理部の活動がある貴重な日。

「由羽ー、帰りカラオケ行かない?」

「あ、真希ちゃん」

この頃仲良くしてくれていた真希ちゃんは帰宅部で、カラオケとかプリクラとかお買い物が大好きだった。

可愛いお店や派手なお店もたくさん知っていて、メイクや香水にも詳しくて、一緒にいると毎日何かの新しい情報を分けてくれる、キラキラ、あるいはギラギラとした女の子。

「ごめん、わたし今日部活で︙︙」

機嫌良く笑っていた真希ちゃんの顔が硬くなる。

「は? 由羽部活なんかやってたっけ?」

「うん、週に一回だけ、料理部︙︙」 前にも言ったけど、と付け足して曖昧に笑う。

微妙な間の後、真希ちゃんが「あっそ」とだけ言った。

親指の爪を指先で撫でているのが見える。真希ちゃんの、イライラしている時に出る小さな癖。

「ご、ごめんね。明日だったら大丈夫だから」

「いいよ、もう。じゃーね」

慌てるわたしを見もせずに真希ちゃんが去っていく。

一緒にいて楽しいこともたくさんあるのに、何気ない一言をきっかけに空気が重くなるのが、わたしは本当に苦手だった。

香水の残り香の中、せっかく誘ってくれたのに断ってしまったことへの罪悪感に胸が絞られる。楽しみにしていた部活も、なんだか悪いことのように感じてきた。頭の中では、明日の真希ちゃんへの挽回策がぐるぐると巡る。わたしの毎日は、気がついた時からずっとこんな調子だった。

「ごめん、わたし帰るね」

涼やかな声。悪びれもせず、臆することもなく、軽やかな響きさえ纏う、真っ直ぐな声がした。

背中の真ん中くらいまで伸びた黒髪に、ぴんと伸びる綺麗な姿勢。メイクをしているわけではないのに、なぜか妙に目を引く女の子が席を立つ。残念がる周囲の反応にも、「そういうの苦手だから」とさらりと返して手を振ってしまう、それが橘一沙さんだった。

「付き合い悪くない?」

「まぁ、一沙だしね」

「そうそう。お嬢はそういう子じゃん」

一人が不満げにぼやいても、結局は「確かに」で済んでしまう。わたしと同じ行為をしているはずなのに、橘さんには罪悪感がどこにもないように見えた。

いつも堂々として、平然として、まるで何も怖くないというような。ハッキリと物を言うのに嫌味じゃない橘さんは、わたしにとってまさに憧れの、とても素敵な女の子だった。

密かな憧れを抱いたまま、わたしたちは高校二年生になった。

クラス替えを機に真希ちゃんとも橘さんとも別のクラスになって、それからは料理部が同じ梨香と美術部のやっちゃんと三人で過ごすことが増えた。真希ちゃんと一緒にいる頃に浴びるように摂取していたトレンドやファッションの情報も、あっという間に知らない記号になっていく。

「ゆうゆうは無理して合わせてたんだよ」と二人に言われるとその通りだと思うけれど、廊下で真希ちゃんを見かけると、やっぱりもう少し頑張って背伸びをしていればと思ったりもした。三人でお弁当を食べながら、体育館に移動をしながら、わたしはつい、わたしたちの外側に意識を向けている。

「ゆうゆうってさぁ、好きな人いるの?」

え、と隣を見るとやっちゃんの猫目がわたしを見ていた。「いないよ」の声に被さるように、梨香が「ないない」と笑う。わたしも笑った。人混みに紛れて歩く時のように、わたしたちの会話で重要なのはこの流れを乱さないことだ。

「2組の橘さんさぁ、年上のイケメンと付き合ってるらしいよ」

「あれ、おじさんじゃなかった?」

「そこは主観じゃん」

確かにと笑って、梨香がリップを塗る。甘ったるい、ニセモノの匂い。

「あの子、大人っぽいもんねぇ」というコメントを耳に入れながら、わたしはあの涼しげな声を拾えるように耳を澄ます。「あとで数学のノート貸してぇ」という声に、半ば無意識に「うん」と返しながら。

廊下の隅に、もうすっかり散ったと思っていた桜が潰れているのが見えた。

憧れの橘さんと初めて喋ったのは、三度目の夏。高校三年生の、最後の夏休みに入ってすぐの頃。

補講の時間割を見に行こうと階段をのぼった先の踊り場に、ぼんやりと窓の外を眺めている人がいた。

窓から覗く青空に埋もれてしまいそうな線の細さ。目を凝らすと同時に抱いた違和感の正体は、その人が橘さんだと気づいた瞬間にはっきりとした。

「髪、」

思わず口に出た言葉に、橘さんが振り返ってわたしを見る。一瞬怖いと思うくらい、橘さんの目は冷えていた。

「あ、えっと︙︙」

ごめんなさいと口にしそうになるわたしを遮って、橘さんが笑う。

「そう、切ったの。よく気付いたね」

一年生の教室で聞いた、あの時と変わらない涼やかな声。背中まで伸びていた黒髪は、今は橘さんの首のあたりで揺れている。変わらず凛とした立ち姿は美しいのに、前よりも少し、なんだか小さくなったようにも見えた。

「あの︙︙橘さん、わたし、一年生の時一応同じクラスで」

「華山さんでしょ?」

「えっ、︙︙あ、うん、そう」

「由羽、って可愛い名前だなって思ってた」

「えっ!」

顔が熱くなる。心臓が弾んだ。不意に風が抜けて、短くなった橘さんの髪が揺れる。シャンプーなのか香水なのか、柔らかくて清潔な匂いが漂う。

「前から思ってたんだけどさ」

「あ、うんっ」

憧れの人と話せていることが嬉しくて、わたしはきっと彼女の唇を見つめて次の言葉を待っていた。

「華山さんはどうして、自分の気持ちを大事にしないの?」

「え?」

一瞬何を言われたのかわからなかった。舞い上がって浮かべていた笑みが不格好に張り付く。理解が追いつくと、今度は胸が詰まった。変な汗が出る。

橘さんの声は終始静かだ。真希ちゃんみたいに責める雰囲気もなければ、不機嫌になることも無い。だからこそ、彼女の言葉は染み込んできて痛かった。

「自分に嘘を吐いたり、自分を低く見積もったりしてるとさ。多分、本当にそうやって扱われるようになっちゃうんだよ」

橘さんの目に写るわたしを思い知らされて、それ以上を聞くのは耐えられなかった。よくわからない流行を追いかけて愛想笑いをしたり、嫌だなと思いながらノートを見せてあげたり、そんなことをしなくて済んできた人に、わたしの気持ちなんてわかるはずがないのに。

「︙︙橘さんにはわからないよ」

「え?」

「わたしたちの気持ちなんて、橘さんにわかる訳がない」

ほんの少し笑うように、困ったように、彼女が眉を下げる。短くなった髪に触れて、「ごめんね」と彼女が呟いた。

『次は有楽町——』

吐き出される大量の人の流れに身を委ねて改札を抜ける。こんなにたくさんの人がいても、向かう先はある程度同じになるのだから不思議だ。

橘一沙は夏休みの間に転校したと、新学期の集会で先生が言った。親の借金だとか、離婚だとか、いじめだとか、いろいろな噂が流れたけれど、真実はわからない。

わたしは、あの日橘さんともっとたくさん話をしなかったことを後悔もしたし、どこかで少し安心もした。あの後のわたしは、逃げるようにしてその場を去ることしかできなかったから。

なんとなく、スマートフォンの検索画面に文字を打つ。

『橘一沙』

エゴサーチなんて気持ち悪いと自分でも思いながら、どうせ何も出てこないだろうとも思って検索を押した。

関係なさそうな検索結果の後に、ラジオのログと文字起こしが載っているサイトがある。特集コーナーで、銀座の甘露雨というカフェが取り上げられた回。文字起こしの中に何度か「橘さん」という言葉が出てきているらしい。

まさかと思いながら、イヤホンをつけてラジオの再生ボタンを押す。聞いたことがあるような無いような音楽の後、特集コーナーのタイトルコールが始まった。

『ここからは今週の知りたいのコーナーです。われわれの独断で、街中の気になるスポットや話題のお店についてご紹介します』

テンポよく喋るラジオパーソナリティの声を聞きながら、日傘が作ってくれた小さな陰を踏む。心なしかいつもより歩くスピードがゆっくりになった。

途中のコンビニでアイスコーヒーを買おうか考えて、家のコーヒーメーカー用の豆か粉も買い足さないといけないことを唐突に思い出す。

『今週のお店は、銀座にオープンしたコーヒーのお店、甘露雨さんです。甘い露に雨でカンロウって読むんですねぇ 。こちらのお店、コーヒー豆や粉の販売もしているんですが、店内で実際にコーヒーを味わうこともできちゃうんですよ。焼き菓子もかなり評判で』

女性のパーソナリティが「行ってみたい!」と合いの手を挟む。信号待ちで足を止めると、じわりと汗が吹き出てくるのがわかった。

『なんでもオーナーの橘一沙さんご自身のご経験から、普段のイメージやキャラクターや役割なんかを脱ぎ捨てて、誰もが心と心で対話できる場所を作りたいと思って作られたお店なんだそうです』

『橘さんがまたねぇ、若いのにしっかりされてるんですよ。僕も何度か伺ったことがあるんですけど、コーヒーも美味しくて、かなり勉強されてきたのかなって』

何せ銀座ですからね、とパーソナリティが笑い合う。文字起こしを追っていたわたしのスマートフォンの中では、大人になった橘さんがカフェの前で微笑んでこちらを見ていた。

——でもね、華山さんの名前って、自由に羽ばたくっていう意味でしょ? だから本当はどこにだって行けるし、何にだってなれるんじゃないかなって思ったの。

——︙︙橘さんは?

——わたしは、一粒の砂だから︙︙意味があるかどうかは、これから。

ねぇ、由羽ちゃん。私たち、きっとどこにだって行けるよね?

あの時、橘さんはそう言ってわたしの手に触れた。長袖のシャツから覗いた手首には、細い傷が何本か見えた。

わたしは、彼女に何を言えばいいのかわからなくなって、その場から逃げた。いつも通りに調子を合わせて頷けばよかったのに、その時はそれさえもできやしなかった。

あの時の橘さんは、一体何を思っていたんだろう。

もうすぐ去ることになる学校で、次の学校やこれからのことを考えながら窓の外を眺めていたのだろうか。

それとも本当は、あの窓から飛んでしまおうとか、そんなことを考えていたりもしたんだろうか。

橘さんはあの時、どうしてわたしにあんなことを言ったんだろう。一度もまともに喋らないまま、たった一年同じ教室にいただけのわたしのことを、どうして覚えていてくれたんだろう。

彼女がいなくなってから何度も思い出していたはずのあの声を、わたしはまるで夢だったみたいに綺麗なものにして閉じ込めてしまっていた。

『店名の由来を聞いたらね、恵みの雨のことなんだって。誰かの言葉や人とのつながりが恵みの雨になることもあると信じたいからって』

今はもう、忘れられているかもしれない。

だけどそれでも、わたしは橘一沙に会いたかった。

今はもう、忘れられているかもしれない。

だけどそれでも、もう一度、わたしは橘一沙に会いたかった。

今更言ったって自己満足かもしれないけれど、あの時、憧れの橘さんじゃなく、わたしと同じように迷ったり揺らいだりしているただの高校生の橘一沙と話して、笑ったり、泣いたり、怒ったり、頷いたりしてあげられなくてごめんねと、それからありがとうと、そんな風に、伝えたかった。

スマートフォンを見ると、まだ少し時間に余裕がある。開店時間は少し先みたいだけれど、準備でお店にいるかもしれない。

電話番号を入力して発信を押す。

青空の下を歩くのに日傘は手放せなくなってしまったけれど、きっとあの頃よりは、自分の足で行きたい場所に行くことができるようになっている。

機械的なコール音に耳を澄ます。その先の彼女の声を待つ。人波に逆らって歩き始めたら、どこにもぶつからずに届く風が思い切り髪を乱した。

彼女が淹れるコーヒーを想像して弾む心臓は、あの頃よりも苦く、それでもやっぱり、とびきり甘やかな鼓動を刻んでいると思った。

著者藤宮 ニア
兵庫県出身の文筆家。フリーランスとしてライター/PRライター/コピーライターとしても活動する傍ら、2018年に短編小説「リトルホーム、ラストサマー」にてNovelJam2018秋の花田菜々子賞を受賞。本名は中西須瑞化。眠っている時間と夕暮れが好き。
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