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ごめんねの気持ちと共に

ごめんねの気持ちと共に

 昼下がりの陽光が、しんとした絵画教室の窓辺に降り注いでいた。僕は窓際に身を寄せて、小さな溜息を零す。先日届いた書類には「二次審査通過せず」の由が記されていた。三ヶ月前に応募した絵画コンクールから送られてきたものだ。僕は絵画教室でアルバイトをしながら、プロの画家になるため、絵を描いては賞に応募している。しかし、未だ何の成果も出ていない。床を掃く箒の柄に縋り付く様に項垂れながら、僕は再び深い溜息を零したのだった。

 その時、ポケットのスマホが身震いした。母からメールが届いた様だ。この時分に珍しい、と思いつつ内容を確認した僕は途端に身が竦むのを感じた。

『今日、お父さんがそちらに向かいます』

 僕は慌てて誰もいない休憩室に駆け込むと、母に折り返しの電話を入れた。開口一番、

「母さん、どういうこと?」

 と訊ねた。すると母は、

「本人がどうしても行くって聞かなくて」

 と答えた。突然父が新幹線で地元福島の郡山から東京までやって来るというのだ。

「何時の便?」

「十一時発」

 時計を見ると、現在十二時四十二分。郡山駅から東京駅まで新幹線で片道一時間半ほどなので、既に到着している頃合いだ。電話の向こうから、

「あなたに教えるつもりだったんだけど、急用が入って忘れてたの」

 と母が言った。父の意図がさっぱり分からないまましばらく黙っていると、

「迎えに行ってあげてちょうだい」

 と言う母の声が聞こえた。僕はぐっと閉口したが、「お願い」と言う母に負け、「分かったよ」と返事をして電話を切ったのだった。

 その後、午後からの教室のシフトを他の職員に変更してもらい、僕は東京駅へと急いだ。

タクシーも捕まえず、通りを足早に進みながら父に電話を入れるか悩んだ。なにせ父と話すのは四年振りなのだ。

とその時、握りしめていたスマホに着信が入った。まさかとは思ったが、やはり父からだった。僕はごくりと生唾を飲み込んで立ち尽くした後、意を決して電話に出た。

「はい」

「啓一か?」

 久しぶりに聞く父の低い声がそう訊ねた。

「そうだよ。今、東京に来てるの?」

「ああ、来ている」

 父は既に東京駅に到着し、近くの喫茶店に入っているとのことだった。

「待っているから、今から来られるか?」

「あと五分くらいで行けると思う」

 僕はそう答えて静かに電話を切り、雑踏の中からふと空を見上げた。流れる雲が時折日差しを遮りながら、慌ただしい街並みの上を通り過ぎて行く。

 四年前、僕は地元の市役所を退職した後に単身上京した。それはプロの画家になりたい、という夢を追いかけるためだ。小学生の頃から絵を描くのが好きで、何度か賞を受賞したこともある。絵を描くことには自信があった。しかし高校進学後、希望の進路が美術系の大学であることを両親に打ち明けると、父は猛反対した。

「絵では食っていけない」

父は僕と同じく、地元の市役所に長年勤める公務員だった。高校生の僕は父に気圧されて仕方なく公務員への道を選択した。それもあってか、画家を目指す為に市役所を辞めた時には父と大喧嘩になった。だいぶ頭に血が上っていたのは確かだが、その時父にぶつけた言葉を今でも酷く後悔している。

「親のエゴだろ。子供を自分の玩具にするな」

結局、僕は半ば家出の様な形で地元を飛び出し、そのまま一人で東京にやって来たのだった。

 雲が外れて太陽に顔を照らされた時、僕はハッと我に返った。父の待つ喫茶店に向かわねば。しかし、なかなか足が前に進んでくれない。しばらく同じ場所を歩き回っていたが、やがて大きく深呼吸すると少しだけ冷静になれたので、僕は思い切って足を踏み出すことにしたのだった。

 待ち合わせの喫茶店に辿り着き、扉を開けて入店すると、聞き慣れたドアベルがからころと鳴った。父は広い店内の窓際の席に腰を下ろし、窓外を見ていた。こちらに気付いて目が合ったが、お互い挨拶一つ交わさなかった。

僕はゆっくり父の元へと向かい、対面の席に腰を下ろしてその表情をちらりと窺った。どことなく神妙な顔付きである。しばらくテーブルの上に目を落としたまま僕はこの沈黙をどう破ろうか、ということばかり考えていた。

 すると不意に「何も頼まないのか?」と父に訊ねられた。ハッと顔を上げた後、「何か頼もうかな」と僕は固い苦笑を浮かべつつメニューを手にした。店員を呼んで一杯の珈琲を注文した直後、別の店員が運んで来た珈琲を見て驚いた。父が先に注文していた珈琲は、僕が頼んだものと同じだった。立ち昇る湯気の向こうから、「被ったな」と苦笑して見せた父はゆっくりとカップを口に近付けた。

再び訪れた沈黙の後、僕の珈琲も運ばれてきた。カップに注がれた珈琲から柔らかな湯気が立ち上る。僕は静かに口元までカップを運び、最初の一口目を飲んだ。滑らかでマイルドな味が舌を包み、鼻から抜ける香りは香ばしく、仄かに甘い果実の風味を携えている。なんとも穏やかな感覚が心を満たし、胸の緊張が解れるのを感じた。ふと父の様子を窺うと、僕と同じ珈琲を片手にやや穏やかな表情をしていた。僕は、そっと訊ねてみた。

「今日はどうしたんだよ、いきなり」

 こちらを一瞥した父は静かにカップを置いた。

「お前の様子を見に来たんだ」

 僕は少し、ぎくりとした。

「地元には戻らないよ。こっちでうまくやれてるから」

 平静を装ってそう答えたのだが、父は何も言わずに再び珈琲を飲み始めた。

僕はその時、あることにふと気が付いた。四年振りに会った父の顔は幾分、昔より老いている様に見えた。それに、今日一人で東京にやって来た父は固いスーツに身を包んでいる。都会の人間に恥を晒さぬ様、服装や持ち物は良いものを選んで来たに違いない。僕はなんとなく目頭が熱くなるのを感じた。父が期待していたものと僕の現状を比べてみると、それは余りにもかけ離れている。暗い気持ちが俯いた僕の顔を覗き込もうとした、その時、

「絵はどうなんだ。今も描いているのか?」

 と突然訊ねられた。「え?」と僕が顔を上げると、

「絵は描いているのか?」

 と父は再び訊ねた。僕は力が抜ける様に椅子の背もたれに寄り掛かった。父から絵のことを訊かれるとは思ってもいなかった。

「毎年描いて賞に応募してるよ。実績が要るから」

 すると父は「そうか」と小さく頷いて見せた。

「それに、アマチュアの仲間達とオンラインの画廊ショップを立ち上げて、何作か僕の描いた絵を売ったりしてる」

再び、「そうか」と一言だけ添えた父は珈琲にそっと口を付けた。心なしかその表情が柔らかくなった様に見え、同時に、ふと僕の脳裏にある情景が蘇った。それは小学生の頃、僕の描いた絵を父がとても優しい笑みを浮かべて観ていた、という記憶だ。当時、父は僕の頭を撫でながらよく言った。

「お前は将来、画家になれるな」

僕は手元の珈琲を見詰めた後、そっと口元に運んで一口飲んだ。味わう程に深みが増し、なんとも落ち着きのある風味が心の琴線に触れる。それはどこか背中を押してくれる様な優しさも持ち合わせていた。

 カップを静かに置いた僕は、「あのさ」と思い切って口を開いた。

「実は、ずっと謝りたいと思ってたんだ」

 父の目が少しだけ大きくなり、手にしていたカップが置かれた。

「あの時、地元を出る前。僕は勝手に仕事を辞めて、喧嘩した時にも酷い言葉を言って、東京に来てからは何の連絡もなしに四年も経ってしまって・・・何もかも、本当に自分勝手だったなって思う。期待とか、気持ちとか、本当に色々なものを台無しにしてしまっていたんだなって思う」

言葉は少し震えながら、父に向かって僕はゆっくり頭を下げた。

「あの時は、本当にごめん」

 黙ったままの父の呼吸が聞こえる程に、辺りを静けさが包んだ。それから僕はゆっくりと顔を上げ、

「でも、やっぱり絵は諦めたくない。本気だよ。半端なことなんてしない。それだけは、知っておいて欲しい」

 と言った。

しばらく沈黙が訪れた後、口を閉ざしていた父がそっと話し始めた。

「お前から謝られるとは思っていなかった」

 その声は、ほんの少しだけ上擦っていた。

「実は今日、俺が東京に来たのは、ただお前の様子を見に来ただけではないんだ。父さんもお前に、謝りたいと思っていた」

 父の言葉に、僕は思わず目をしばたいた。

「お前が画家になりたいと言った時、つい感情的になって頭ごなしに反対してしまった。あれから時間が経って、あの時の俺は本当に冷静じゃなかったのだな、とつくづく思ったよ」

 僕は自分の呼吸が浅くなるのを感じながら、父の話を聞いた。

「とても不安だったんだと思う。お前は一人息子だし、安定した生活をして欲しいと思っていた。自分が安心したかっただけなのだろうな。本当はまるで息子のことなんて考えていなかったのかもしれない」

 口を噤んだままの僕に、父はそっと言った。

「母さんからお前の話はいつも聞いていたよ。アルバイトをしながら、しっかり一人でやれているみたいだな」

 僕が小さく頷いて見せると、父は照れ臭そうに窓外に目線を投げつつ、

「実は父さんも、高校の頃まで絵を描いていたんだ。結局、途中で筆を折ってしまったんだがな」

 と言った。「そうだったの?」と僕が訊ねると、父は苦笑しながら頷いた。

「お前は諦めずに絵を描いているんだな。オンラインで絵を売っていることは初めて知ったが、俺はとても安心したよ」

 一度だけ深く息を吸った後に、父は僕の目を見て言った。

「今まで、本当にすまなかったな」

 つんと目頭が熱くなって、顔を覆い隠す様に僕は珈琲カップを口元に運んだ。一口飲むと、豊かな香りと芳醇な味がしっとり心に染み渡った。

窓辺に立ち寄る陽光が照らす二つの珈琲カップ。それは同じものを揺蕩えながら、残された量は少しだけ違う。しかしまだ共に飲み合える時間があることに僕は気が付いた。

父と僕はそれから、喫茶店でランチを食べた。言葉少なではあったが、親子水入らずの世間話を堪能出来たと思う。そして僕は食後にもう一杯、同じコーヒーをお代わりしたのだった。

 父が福島に帰ってから一週間後。

 僕は驚きを隠し切れないまま実家に電話を入れた。直ぐに出たのは母だった。

「母さん、どういうこと?」

「やり方を教えてくれって何度もお願いされたから、私も手伝ったのよ。でも、どれがいいか選んだのはお父さんよ」

 そう言う母の声を聞きながら、僕はPCに届いていたあるメールに再び目を通した。それは、オンラインショップで出品している僕の油絵が二点購入されたというもので、その購入者は父だった。

「お父さん、あなたの絵が届くのをとても楽しみにしていたわ。あんな笑顔を見たの、何年振りかしら」

 嬉しそうに母がそう言った時、一筋の涙が頬を伝うのを感じた。

目元を拭って鼻を啜り、「今、家にいる?」と僕が訊ねると、母は「ふふふ」と小さく笑った。

「いるわよ」

「電話、変わってくれない?」

父を呼ぶ母の声をスマホ越しに聞きながら、僕は子供の頃の記憶を思い出していた。それは、僕の描いた絵に優しい笑みを浮かべる父の横顔だった。

「啓一か?」

 スマホの向こうからすぐにやって来た低い声に、僕はそっと微笑んだ。

「そうだよ、父さん」

著者 湯川葉介
二〇二一年よりnoteにて短編小説や連載小説を執筆。心にじんわりと沁みる物語をお届け中。読書、映画、洋楽、図書館好きのインドア&マイペースな医療職者。猫との静かで慎ましい隠遁生活を送るのが人生の夢。
コーヒーについて
あの時はどうしても素直になれなかった。相手の気持ちを考える余裕がなかった。でも今ならきっと伝えられる『あの時はごめんね』と。今回は、中米系の焼きリンゴのような落ち着いたフレーバーの豆を口当たり滑らかなマイルドな味わいに仕上げることで、心を調和し、気分を穏やかに引き戻してくれるブレンドにしました。素直さと少しの勇気をくれるきっかけの一杯となりますように。
ものがたり珈琲
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