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朝焼けを見ながら一日のはじまりに

朝焼けを見ながら一日のはじまりに

ぐちゃぐちゃでどうしようもない毎日が、たった1つの習慣をきっかけにガラリと変わることがある。

あの日、午前4時45分。私はシンプルにどん底だった。

しばらく続いたサービス残業、デリカシーのない上司の発言。新卒で入社してそろそろ4年が経つけれど、上手く立ちまわっているとは思えなかった。

書類の入った重たいバックはずっしりと肩にめり込んでいる。先週ケンカした彼氏は既読すら付けない。

取引先との飲み会を済ませ、上司を見届けた後、アプリで呼んだタクシーが到着するまでのたった数分。どうしようもない悲しさに押しつぶされそうになって、やっとの思いで後部座席に体を滑り込ませた。

東京都世田谷区三軒茶屋︙︙、住所はアプリで伝えている。嬉しいことに何も喋らなくていい。

いつか誰かが「タクシーって意外と高級車なんだよ」なんて、言っていたっけ。黙ってもぐりこんだ体がすっぽりと後部座席に埋まり、カーブしても止まってもふんわりと受け止められる。じわじわと荒んだ心がほぐれていき、妙に納得してしまった。

「運転、上手ですね」

聞き取るのも難しいくらいの呟きがこぼれて、自分でもびっくりする。

さっきまで住所すら喋りたくないと思っていたのに。私って絡みたいタイプのお客さんだったっけ。

運転手は私の動揺を少しも気にも留めず、

「ふふふ、ありがとうございます」

と、嬉しそうに返事をした。くすんだ肌、白髪交じりの髪。もう定年も近い年齢だろう。運転に関する褒め言葉は何度となく受け取っている雰囲気だった。

それでも、

「もうね、30年になります。でも、褒めていただけるのは嬉しいですね」

と彼は続けた。ここで話が終わっても自然な、調度いい返答。

自分で声をかけておいておかしな話だが、その気遣いも嬉しかった。今、誰かの話に気の利いた相槌をする自信はない。まして、今どきの若い者はとでも論じられたら心が決壊してしまいそう。さっきの言葉はただ零れ落ちただけなのだ。

彼の気遣いを甘んじて受け入れ、彼からの返答を噛みしめる。――30年。今日や明日にいっぱいいっぱいの自分からすると、途方もない時間。

「そんなに長く続けているのに、こんな時間まで働かれているんですね」

そう言葉にした途端、やってしまったと思った。なんて卑屈で嫌味な言い方だろう。自分だって明らかに仕事帰りだというのに。

でも、この深夜の時間帯に楽しそうに働く彼を見て、なぜそんなに余裕があるのか、どうしても知りたくなってしまったのだ。バックミラーで目があう。見返すのが怖い。

彼はふふふと微笑み、「同僚にもよく言われます」と静かに答えた。失礼な言い方をしたと思ったけれど、全く気に留めていないようだった。

「確かに、深夜の勤務は身に応えますから、最初は少ししんどく思っていました。

元から運転が得意だったわけでもないですし、そもそも私が仕事を選んだ時代はそこまで職選びの選択肢がある時代でもなくて。

ただ、東京都内は人が多いでしょう? 運よく、免許を持っていましたし、タクシーの需要はあったから働き始めただけなんです。

それで、会社から言われるまま、この時間にもなんとなく勤務をするようになっただけなんですよ」

「なんとなく、ですか」

「そうです。お客様が期待しているような何かがあるわけじゃありません。

なんとなく毎日タクシーを運転して、お客様を見送るっていう目の前の仕事をしただけと言いますか。年っていうと立派に聞こえるかもしれませんが、ただそれだけなんですよ」

毎日、目の前の仕事をしていく。シンプルなことだ。それだと言っちゃそれだけなのかもしれない。ただ、それは思うより難しい。

入社4年目、そろそろ26歳になる。いい大人だ。それでも、本当だったら仕事ももっと上手くやれる気がするし、結婚していたっていいし、毎日もう少し余裕があったっていいと思ってしまう。

このままの自分を30年間も続けたとして、彼のような穏やかな人になれない気がしてしまった。

沈黙の時間が流れる。ぐるぐると考えを膨らませる私を、彼がバックミラー越しに伺っているのが見てとれた。きっと私が目を閉じれば、この話はここで終わるんだろう。逆にもっと聞きたいと言えば、雑談を続けてくれる雰囲気だった。

「その︙︙、目の前のことでいっぱいいっぱいになってしまうことも多くて。仕事に限らず、自分のことも、なんとなく上手くいかないっていうか」

「︙︙そういうお話であれば、仕事を続けて20年前くらいでしょうか。実は楽しみを見つけてしまいましてね」

私が鬱々と考えを膨らませるのを知ってか知らずか、明るい調子で彼はきりだした。

「いくら仕事とはいっても、この時間まで働いていると、生活がそれだけになってしまったんです。趣味を持とうと思っても、なかなか難しくて。そうなってくると、どうしても息苦しくなるでしょう。

でもね、タクシーって色んなところを走るので、この時間でもやっている珈琲店を見つけたんです」

珈琲店。不意にでてきたその言葉に驚いてしまった。

「仕事が終わった後、朝焼けの中で飲む珈琲が美味しくて。

最初はテイクアウトしていたんですが、そのうち豆を買って、自分で淹れるようになりましてね。だんだん、上手になっていくんです。それが楽しいんですよ。

1杯を淹れるのには大体10分くらいかかるんですが、そのたった10分、どんな淹れ方をするかで同じ豆でも味が変わるんです。

ネットで調べたら朝からカフェインをとるなんて体にはよくないらしいんですけどね。でも、その1杯を楽しむ時間はなにより贅沢な気持ちになれるので、少しくらい悪いことでもいいかなと思っていまして」

まるでイタズラをする学生のように彼は笑う。

毎日に忙殺されて、新しいことを始めるなんて選択肢はいつの間にか頭から消えていた。たった、10分。でも、その10分は彼が彼だけのために使う貴重な時間なんだろう。

それが一般的にちょっぴり悪いことだったとしても、自分を甘やかせる彼がとてもうらやましく思えた。

大人になったら、仕事をして、責任をもって、正しい日々を過ごさなくてはいけない気がしていた。もちろん、間違っているわけじゃないだろう。

ただ、大人だからこそ、バランスよく自分の時間を確保するのかもしれない。そうすることで、長く大人をやっていられるのかもしれない。

「︙︙その珈琲店ってどの辺りですか? もし、迷惑じゃなければ寄っていただくことはできますか?」

自分の口から出る言葉に、今日は驚かされてばかりだった。

紹介してもらった珈琲店はかなりレトロな内装。気難しそうな店主に経緯を話すと、淡々と対応をしてくれた。

おすすめされた豆の名前は、なんだか呪文のようだった。豆で味が違うのは知っていたけれど、アフリカと中南米のもので何がどう変わるのかなんてピンとこない。

眉間にしわをよせた私を見て、店主は「もし知りたくなったら次にきたときにもう一度聞いてくれ」と静かに言った。

そういえば、仕事明けで寝てなかったんだっけ。なんだか夢中になってここまで来てしまったけれど、そりゃあ頭もまわらない。店主の言葉に大人しく頷き、そのまま器具一式と一緒に購入する。またここに来る理由ができたことが、たまらなく嬉しかった。

とはいえ、衝動買いだ。頭の中で少しだけ預金額を思い浮かべる。自分を咎める気持ちがないと言えば嘘。ここで勢いで始めたとして、彼の趣味が私にあうかどうかはわからない。

それでも、今すべてを揃えて始めたかった。

ここで自分を後回しにしたら、もうずっとそのまま続いてしまう気がして。

家に帰り、一目散にお湯を沸かす。そういえば一人暮らしを始めた時に雑貨屋さんで買ったマグカップが戸棚の奥にあった気がする。働き始めて慌ただしくなってから、そういえば使う機会が減って追いやってしまったんだっけ。

粉とお湯を測り、丁寧に注ぐ。コポコポという特徴的な音と、蒸気が広がる。

豆を挽いて準備するのに5分、コーヒーを入れるのに5分。

コンビニで買えば、この時間も半分足らずで済むだろう。それでも、マグカップへサラサラと抽出されていく珈琲を見ると、じんわりと心が温まる。この感覚はきっと自宅でしか味わえない。

カーテンを明けると、朝焼けの空が広がっている。ゆっくりと、自分で淹れた珈琲を口に運ぶ。これほど大切に何かを飲んだことがあっただろうか。

目の奥まで届く甘い香り。砂糖とは違う、フルーツみたいだ。珈琲って苦くて、キリリとした味だと思っていた。寝不足でぼんやりとした頭が、ふんわりと優しい酸味に喜んでいるのがわかる。店主はどうしてこれをおすすめしてくれたんだろう。

朝焼けの時間ももうすぐ終わり。雑居ビルの隙間から白んだ空が広がっていく。

人生は小説より奇なりとはよくいったもので、思い描いていた大人になれる確率はかなり低いのかもしれない。

そもそも、まだ知らないことの多い状況でイメージした未来。どれだけ考えたって予想外のことも起こるだろう。

小さい頃、チラシの裏に描いた大人になった自分は、綺麗なロングヘアで、優しい彼と仲良し。しかも仕事に燃えるキャリアウーマンじゃなかったっけ。

そういえば母が私を生んだのは26才。気が付いたら追い越してしまった。まったく、思い通りになんてならない。

けれど、こんな風に珈琲を淹れ、朝焼けを眺めるとも思っていなかった。こんな風に自分が喜ぶことを自分でできるようになるなんて。

思い通りにならないというのは、想像以上によくなる可能性も含んでいる。もう一度、マグカップを顔の前に運び、ふっと息を吸い込む。

朝方のこの1杯は、私のためだけのもの。とびきり贅沢な私だけの1杯だ。今日から始まるこの習慣は、私をきっと理想の大人に近づけてくれる。最後の一口を飲み干すと、昨晩より軽い足取りで玄関のドアを開いた。

著者中馬さりの
旅暮らしの物書き。1992年、東京生まれ。文化女子大学服装学部を卒業しアパレルメーカーに勤務後、執筆活動で独立。現在はひとり旅暮らしをしながらWebサイトやYouTubeチャンネルの運営、執筆活動を行う。
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