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話に花を咲かせたい時に
向日葵の花びらが、近所の神社から響く祭りばやしに揺れます。
望月涼一さんが淹れた珈琲の湯気は柔らかく夕日を含み、星野鈴さんがカップを傾けると茜色の香りがしました。
長く下る大通りに面したフラワーカフェ・サンの店内では、涼一さんと鈴さんのふたりの影だけが斜陽に伸びています。
「夏の珈琲だね」と鈴さんは曇った黒縁のメガネを拭きました。
「この豆、旨いでしょう。俺も気に入ってましてね」と涼一さんは古木のカウンター越しにうなずきます。
「どうして敬語なのよ?」と鈴さんはメガネをかけなおしました。
十八年前にはなかった薄いしわを目尻につくり、涼一さんは苦笑します。「もう離れて暮らした時間のほうが長いから」
ふたりは別々に過ごしてきた日々について語ります。涼一さんは二十五歳で店を開いてから今日までの三年間に出会ったお客さんのことを話し、鈴さんは小児科医院で医師として働いてきた七年間で接した子どもたちとの思い出話をしました。
「なぜ私が? なぜこの子が? 子どもや両親からそう訊かれると今でもどう答えていいか分からなくてさ」
鈴さんは店内で売られている向日葵を眺めます。彼女が遠い目で見ているのは、橙色の花びらではなく、十八年前に十歳だった涼一さんの姿でした。ふたりが姉弟として、まだ一緒に暮らしていた、あの頃の。
子どもの頃、涼一さんは風邪が治ったそばから風邪をひくことも多く、肺炎や気管支炎に罹っては、入退院を繰り返していました。呼吸機能検査や胸部X線撮影、採血なども慣れたものです。
小学校は休みがちでした。遠足や校外学習へも行けず、放課後に友だちと外で遊ぶこともままなりません。子どもらしい愉しみから離れて涼一さんは小さな患者として医師や看護師の言うことを聞く毎日を送っていたのです。
鈴さんもまた同じでした。身体が丈夫で手のかからない姉として涼一さんの看病に明け暮れる両親を気遣い、鈴さんはひとりだけで何でもできる大人を演じました。体操服へのゼッケンの縫い付けや防災頭巾の洗濯、親向けの書類への押印など、誰に頼まれなくともこなします。
姉弟は子どもではいられない子ども時代を過ごしました。
しばらく涼一さんが小康を保った時期に、姉弟は両親と夏祭りへ行く約束をしました。
ふだん涼一さんはできるだけ人混みを避けていましたが、主治医からも許しを得て、近所の公園で催されるお祭りを愉しめることになったのです。
何日も前から涼一さんはカレンダーの日付に赤丸を付けました。いつのまにか鈴さんが丸に花びらを足して、向日葵を咲かせます。
母も父も家族の時間をとれることが嬉しくて、久しぶりに明日や明後日ではない未来に目を向けられた気がしました。
午前一時半、翌日に夏祭りをひかえて眠れない夜を過ごしていた涼一さんは布団を被り、深呼吸をします。しかし、どうしても咳が止まりません。にわかに容態が悪くなったのです。泣きながら咳を押し殺そうとしている涼一さんは両親に抱きしめられました。
翌朝、涼一さんの入院が決まります。
月半ばでしたが、その夜に鈴さんは七月のカレンダーを破り捨てました。
「どうして涼一は身体が弱いの?」
初めて鈴さんは弟を責めるような口調で親に問いました。両親は答えられません。母と父の顔を見て「ごめんね」と鈴さんはすぐに謝り、自室の扉を閉じました。
涼一さんは病室の寝床で、鈴さんは自分のベッドで、今夜飲めるはずだった瓶のラムネの爽やかな味を想います。この日のために、姉弟は夜遅くまで机に向かい、宿題を早く片づけてきました。
両親もふたりがどれだけ今日を待ち望んでいたか知っています。子どもたちを慰める親の顔には深い疲れが浮かんでいました。
昔から涼一さんは向日葵畑が好きでした。
まだ涼一さんが幼稚園に通っていた頃、病状が軽い時に家族で行った向日葵畑の蒼い匂いと夏の陽を浴びた風は忘れられません。
夏祭りに行く願いが叶わなかった日が過ぎてからも、涼一さんは何度も入退院を繰り返します。病院で辛い治療に耐えられたのは、いつも向日葵畑が涼一さんの心の底を温めてくれたからでした。
母も父も鈴さんも涼一さんも、背筋を伸ばして愉しそうに太陽へ咲く向日葵が好きでした。いつかまた四人で車に乗って向日葵畑に行ける日を胸に、涼一さんは病室での寂しい夜を乗り越えます。
吐き気がするような薬を文句のひとつも言わないで飲み、血管が脆くなるほど繰り返し刺した点滴の痛みにも耐えました。
季節がひとつ移るたび、涼一さんの症状はよくなっていきます。
「成長して免疫力が強くなってきたこともさることながら、当人が
辛抱強く病気と戦ったおかげでしょう」と主治医は笑いました。
当時は梅雨の頃でしたが、病院ではなく家の窓から見上げた暗い雲の奥に、涼一さんは太陽の姿を思い描きます。これからは気がねなく友だちと遊べると思うと、夏祭りでラムネが飲めると思うと、家族四人でまた向日葵畑を歩けることを思うと、涼一さんは初めて背筋を伸ばして空を見上げられる気がしました。
両親は涼一さんの回復を見届けて、しかし協議離婚を決めます。
仕事をこなしながら、時には二十四時間休みなく子どもの身体と心に気を配る暮らしが、夫婦をふたりの労働者に変えました。
母は父を責めません。父も母を責めません。夫婦が子どもたちを責めることなど、もちろんありません。ただ、鈴さんと涼一さんが望む温かい家族ではいられなくなった自分たちを責めました。
涼一さんは母と暮らすことになります。姉弟ともに母親が育てるつもりで話は進められていましたが、その時まだ小学校の六年生に上がったばかりだった鈴さんは言います。
「父さんをひとりにはできない」
子どもたちの絆を想い、母も父もどうにか鈴さんを説得しようとしましたが、鈴さんは決めたことを曲げません。
そうして兄妹は別々に生きていくことになりました。
以来、涼一さんの病状が悪くなったことはありません。けれど、もう家族四人で向日葵畑を歩く日は来ませんでした。
母親は長らく休職していた福祉関係の仕事に戻りました。父親は涼一さんの看病に追われて成果を上げられていなかった通信関連の事業に力を注ぎます。
子どもに不自由なく暮らしてもらおうと仕事に打ち込む母と父の心の底には灰色の雲が流れていました。鈴さんと涼一さんが別れの日に涙を隠して交わした「またね」という言葉は、いつまでも耳に
残って消えません。
父親とふたりで暮らすようになってからも、鈴さんは幾度となく夏祭りへ行けなかったあの日に口にした自らの問いかけを思い返しました。
「どうして涼一は身体が弱いの?」
思えばそれは親に答えを求めた問いではありませんでした。弟をほんとうに責めたかったわけでもありません。あの夜、涼一さんの咳が聞こえてきても何もできなかった自分への苛立ちが、鈴さんの口から夕立のようにあふれ出たのです。
「どうして俺は身体が弱いんだ?」
病から立ち直ったあとも涼一さんはかつて毎晩病床で目をつぶりながら自らに問うた言葉を思い出しました。ただ自分が健康でありさえすれば、母の目から頬にかけて化粧が落ちた跡を見ることも、まだ若かった父の白髪が日増しに多くなっていくことも、姉が夜にひとりで夕食をとることもなかったと涼一さんは考えます。今も家族四人で仲良く暮らしていたはずだと。
フラワーカフェ・サンの店内に置かれている黒電話は、古物市で買ったお気に入りの一品で、夏の日差しのように明るいベルの音が鳴りました。受話器から父親の再婚の報せを聞いてから、姉と顔を合わせるまでの流れを、涼一さんはあまり覚えていません。
それほど自然な成り行きで姉弟は十八年ぶりに再会しました。
これまでも鈴さんと涼一さんはお互いに住所を知っていたので、会おうと思えばいつでも会えたはずです。それでも今日まで姉弟が連絡さえあまりとらなかったのは、それぞれが自分にはその資格がないと考えていたからかもしれません。
涼一さんは二杯目の珈琲を紙製のタンブラーに注ぎます。
「持っていきましょう」
何のことか分からないままに、鈴さんは首を傾げてタンブラーを受け取ります。遠く響く和太鼓の音は珈琲の波紋となりました。
涼一さんはエプロンを脱ぎ、自分の分の珈琲を手にします。
「夏祭りへ」
西日を呑み込んだ藍色の空に色とりどりの提灯が映えます。
人いきれがする境内は広く、白熱灯を下げた屋台で、人々は夏を買っていました。たこ焼き、焼きそば、かき氷。チョコバナナに、綿あめ。金魚すくいをしている女の子が笑って、射的に腕まくりをしている男の子が片目をつぶります。
鈴さんと涼一さんはラムネを買わず、タンブラーに入れた珈琲を飲みながら、夏祭りを愉しみました。ヨーヨー釣りをして、名前も知らないヒーローの面を被り、林檎飴と珈琲が合うかどうかの言いあらそいをして笑います。
かつては苦くて飲めもしなかった珈琲を片手に、姉弟はベンチに座って、十八年の間に硬くなっていた空気に温かい種を撒きます。話に花が咲きました。
母が父の再婚を喜んでいたこと。涼一さんは新婦に気を遣って父親の結婚式へ行かないつもりでいること。鈴さんが小児科医としてほんとうに治したいのは、きっとあの頃の涼一さんだということ。
「俺が花屋になりたいと思ったのは」
言葉を区切り、涼一さんは冷めた珈琲を飲みました。鈴さんは食べきれないでいる林檎飴に宿る月影へ目を落とします。
続きを言う代わりに涼一さんは珈琲を飲み干して、雲ひとつない星空を仰ぎました。鈴さんも月を見上げます。
どうして? そう問いかけたそれぞれの遠い夜に想いを馳せ、鈴さんと涼一さんは背筋を伸ばします。元気いっぱいの小さな姉弟がふたりの前を駆け抜けました。そのあとを両親が肩を並べてゆっくりと歩きます。
鈴さんが珈琲を飲み終えた時、涼一さんは言いました。
「俺さ、親父に贈るよ。向日葵の花束を」
- 著者 小牧幸助
- 作家。一九九〇年三重県生まれ。早稲田大学卒業後、主として一分で読める心が和む掌編小説の執筆活動を続ける。
- コーヒーについて
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長い間会えていなかった友人や家族と久しぶりに会う。仕事のこと、恋愛のこと、最近はじめた趣味のこと、話したいことはたくさんある。でも、そんな気の知れた人との再会も、久しぶりだとどこかそわそわ少し緊張する自分も。今回は、アフリカ系を主体にナチュラル精製の豆を深煎りにしたブレンドに。初めは、相手との緊張感をどっしりとした深煎りの味わいで穏やかに解消しつつ、時間が経つに連れ徐々に出てくるフルーティーで甘い香りが楽しい気持ちを後押ししてくれるような味わいにしました。この一杯が大切な人との時間を滑らかに巻き戻してくれますように。