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一歩踏み出す勇気が欲しい時に

一歩踏み出す勇気が欲しい時に

「おまたせ」

 優子は、アイスコーヒーを絵里の前に出した。

 絵里が優子と会うのは数年ぶりだ。高校卒業後、絵里は大学に、優子は専門学校に進学した。たまにお茶をすることはあったが、優子が社会人になると連絡を取る回数はぐんと減って、気がついたら二人とも三十歳になっていた。

 はじめて訪れた優子の部屋は、ワンルームで広くはないけれど、白い家具で統一されているせいか、明るくすっきりとした印象だ。

「このコーヒーおいしい」

 香り高くてコクがあるが、ほどよい苦味のおかげですっきりした後味。エアコンが効いた部屋でも、夏に飲むアイスコーヒーは格別だ。

 優子は戸棚からクッキーを出しながら、絵里の方へ顔を向けた。

「あ、これ果穂のお店のコーヒーよ」

 絵里の心臓がどきんと音を立てた。

「果穂?」

「あれ?知らない?果穂、今バリスタとして働いてるよ。美術館の近くにあるカフェで」

 優子はクッキーと一緒にコーヒーの袋をキッチンから持ってきた。

茶色の袋に「香りと深みの珈琲堂」と書いてある。

「絵里と果穂はすごく仲良しだったから、知ってると思った」

 優子の声を聞きながら、絵里は頭の中に果穂の顔を浮かべる。果穂の顔は、大学生の時のままだ。

 絵里と果穂は、高校一年の時に仲良くなった。内気でおとなしい果穂と積極的で社交的な絵里。教室移動や昼食はもちろん、下校も一緒。休日もよく遊んでいた。

 どうしてそんなに話すことがあるのか自分たちでも不思議だったが、絵里と果穂はいつまでも話ができた。勉強のこと、先生のこと、テレビや漫画のこと、男子のこと。

 果穂は内向的で、自分のことを話すのは苦手なようだったが、聞けば答えてくれた。

 どちらか一人だけが体験することがあると、必ず感想を言い合っていた。

 果穂が茶道部の体験に行った後、絵里がこう聞く。

「どうだった?」

 絵里が塾の見学に行った後、果穂がこう聞く。

「どうだった?」

 そうやって何でも話し合い、互いに知らないことはないと信じていた。

 二人は同じ大学を目指した。果穂は家庭の事情で塾に通えなかったが、絵里の塾がない日は二人で勉強した。そして、二人とも志望する私立大学に合格した。

 進んだ学部は別々だったため、授業はバラバラだ。それでも昼食は一緒にとっていた。

 大学二年になると、絵里は果穂から居酒屋のアルバイトの相談をされた。時給が良いらしい。

 引っ込み思案の果穂と居酒屋はあまり合わない気がしたが、果穂の人見知りを克服できるかもしれないと思い、絵里は「いいんじゃないの」と言った。

 果穂がはじめてアルバイトに出た翌日、絵里はいつもどおり「どうだった?」と聞いた。

「緊張した。おじさんがいっぱい来たの。でも、自分で始めたことだし、がんばる」

 果穂はそう言って微笑んだ。

 大学三年の秋、絵里は同じ大学の友人から果穂が授業を休みがちになっていると聞いた。特に午前中の授業には一切出ていないそうだ。

「果穂、このままだと必修科目も落とすかもよ」

 絵里は果穂から授業を欠席していることを聞いていなかったし、果穂が昼食に遅れることもなかったため驚いた。

 心配になった絵里は、果穂に授業のことを聞いた。

「授業はね、出るつもりはあるんだけど︙︙。バイトが深夜まであるから、起きられなくて。明日からがんばるよ」

 果穂は話しながら微笑んだ。

 しかし、その後も果穂は授業を休み続けた。絵里との昼食にも間に合わない日が出てきて、絵里は果穂に電話をした。

「大学生なんだから、バイトが一番じゃないでしょ。優先順位を考えないと」

「わかってる。ありがとう︙︙」

 絵里には果穂が困っていることがわかった。同時に、果穂は困るだけで改善しないであろうこともわかった。このままでは、果穂の大学卒業が危ぶまれる。

 そこで、絵里は午後の授業の後に果穂を捕まえて、大学の近くにある喫茶店に行った。直接話せば自分の気持ちを伝えられるし、果穂もバイトを減らそうと思うはずだと絵里は思った。

 しかし、果穂は多額の奨学金を借りており、その返済のために今からお金を稼いでいるためバイトは減らせないと言った。

「奨学金を借りているからこそ、授業に出なくちゃ。留年したらもったいないよ」

 果穂は下を向いた。こういう時の果穂は、何かを考えている。絵里はじっと待った。出されたコーヒーに二人とも手を付けていない。

「奨学金、親が使っているの」

 ぽつんと果穂が言い、絵里は言葉を失った。果穂は奨学金返済のためではなく、学費や生活費のためにバイトをしていたのだ。

「でも、居酒屋のバイトって朝起きられないほど夜遅くまでやっているの?」

 絵里がそう聞くと、果穂はまた下を向いた。コーヒーは、冷めてすでに湯気は出ていない。

「今は居酒屋じゃなくて夜のお店で働いているの」

「待って。聞いてないよ。夜のお店?」

 絵里はついテーブルを叩き、果穂はびくっとした後困ったように絵里を見た。果穂は何も言わない。絵里は果穂から視線を外し、ひと口コーヒーを飲んだ。苦味だけが口に広がった。

 果穂はこれからも授業に出られないだろう。出るつもりもないのかもしれない。その考えが絵里の頭によぎった。

「学費のために働いて授業に出られなかったら、何の意味があるの。だらしないよ︙︙」  

言い過ぎたと思ったが、そのくらい言わなければ果穂の目は覚めないとも思い、絵里は言い直さなかった。果穂は無表情になり、黙って絵里を見つめた。それが果穂の怒りの表情だと気づいたのは、少し後になってからだった。

 その後、果穂は徐々に絵里からの連絡に反応しなくなった。二回に一回は返ってきていた連絡も、そのうち三回、四回連絡しても返ってこなくなった。

 絵里は、同じ学部の友人と昼食をとるようになった。

 ときどき、果穂の噂が耳に入ってくる。派手な格好で歩いていた、いつも違う男の人と腕を組んで歩いている、授業は休みがち︙︙。

 このままでは、果穂は大学を中退してしまう。今、果穂を正しい道に戻せるのは自分だけだ。絵里はその気持ちをもって、返信がなくても、折り返し電話がなくても、毎日果穂に連絡した。

 そしてある日、果穂の電話番号を押したところ、「お客様のご都合によりおつなぎすることはできません」とメッセージが流れた。

 あの日から九年が経ち、絵里は現在、小学校教師として働いている。教師一年目の時、子ども一人ひとりの家庭環境に大きな違いがあると知った。自分の考えを子どもに強要する親、子どもを放置する親、給食費を滞納する親。そういう親の多くは、子どもの話を一切聞かない。さまざまな保護者と接していく中で、絵里は子どもの数だけ家庭も異なることを痛感した。

 ある日、授業で金子みすゞの詩を紹介した。

「みんなちがって、みんないい」

 みんな違うのだから、それぞれの考え方を尊重しましょうね、と生徒たちに言った時、絵里は思わずハッとした。

 私は、果穂の考えや状況を尊重できていただろうか。

 果穂の場合、大学に通うためには奨学金が必要だった。もしかしたら、大学入学後に両親の仕事に何かあって、生活が逼迫していたのかもしれない。一般的な時給のバイトでは、学費どころか生活費も賄うことはできない。親が学費を全額支払い、奨学金を借りる必要もなかった絵里は、そこまで想像できていなかった。

「学費のために働いて授業に出られなかったら、何の意味があるの」

 果穂や果穂の家族の生活を守るためには、意味があることだったのかもしれない。

 なぜもっと果穂の話を聞かなかったのだろう。絵里は後悔した。果穂は自分のことを自分から話さない。絵里は果穂に尋ねるべきだったのだ。授業を欠席する理由ではなく、果穂が置かれた状況と気持ちを。

 絵里はどこかの親のように、自分の考えを押し付けていた。それがわかった瞬間、 絵里は果穂の話をもう一度聞きたいと強く思った。しかし、すでに果穂に会う方法も声を聞く手段も絵里には思いつかなかったのだった。

「果穂、がんばってるみたいよ。今度カフェに行ってみたら」

 優子は、コーヒーを見つめながら言う。進路が別だった優子は知らないのだ。絵里の無神経さも、果穂の苛立ちも。

「果穂と何かあったの?」

 優子の声が優しく響く。コーヒーの匂い。無表情でまっすぐ絵里を見つめた果穂の顔。

 あの時、果穂は私をあきらめたんだろう。わかり合えてると思っていたからこそ、失望したのかもしれない。そう思うと、胸の奥から苦いものがこみ上げるのを絵里は感じた。

「ちょっと、ボタンをかけ違えたみたい」

 絵里は力なく笑うしかなかった。

 自宅は昼間の温度を抱えていた。絵里は窓を開けて深呼吸した。夏の夜の空気が部屋と身体に流れてくる。

 テーブルには優子から渡された小さな紙袋。中には「香りと深みの珈琲堂」のコーヒー。

 絵里は電気ケトルのスイッチを入れ、コーヒーの袋を開けた。ふわっとコーヒーの香りが広がる。

「ボタンのかけ違いってさ」

 優子の声を思い出す。古い電気ケトルは、音を立てて湯を沸かす。フィルターにコーヒーの粉を入れる。

「ボタンと穴、どっちも悪くないよね」

 その言葉を聞いた時、絵里は泣き出しそうになった。

 絵里は自分が正しいと思う場所に果穂が戻ってくると思っていた。果穂は果穂なりの正しさで、できることをやっていた。何もかも一緒だと思っていた二人にも、一緒ではない状況や考え方はある。あの時はそれが理解できなかったが、何年も経って絵里はようやく気づいた。絵里と果穂は、あの喫茶店でもっと相手の話を聞いて、自分の気持ちを話すべきだったのだ。

 絵里は逡巡する。もう一度果穂に会いたいけれど、今度こそ話を聞きたいけれど、今さら迷惑と思われるかもしれない

 コーヒーに湯を注ぐと、粉がマッシュルームのように膨らむ。蒸らしている間に、ふと袋の裏側を見ると手書きの文字が印刷されていた。見慣れた果穂の字だった。

昔飲んだ珈琲は苦いだけでした

その苦いだけの思い出を持って珈琲を学ぶと

珈琲は苦いだけではなく深みのあるものだと知りました

いつかの苦い経験も深みのあるものに

あなたの大切な時間に寄り添いますように

 これは、あの喫茶店でのことだと絵里はすぐにわかった。苦いだけのコーヒー。私たちのはじめての衝突。あのことは苦いだけではなく、気づきのある大切な出来事。果穂は、今そう思えているのだろうか。

 淹れたてのホットコーヒーは、アイスとは別のおいしさがある。口当たりの丸さ、その後に広がる奥深い苦味。絵里はひらひらと立ち上る湯気を見ながら、頭に浮かぶ大学生のままの果穂の顔と自分の思いを見つめる。

 あの時のコーヒーは、本当に苦いだけだったのだろうか。当時の私にはその奥にある深みがわからなかったのかもしれない。

 明日は日曜日。晴れるらしい。美術館の方に行こうかな。「香りと深みの珈琲堂」でコーヒーを飲むのもいいかもしれない。そして、もし果穂がいたら思い切ってこう声をかけよう。

「これまでどうだった?」

 苦くてこうばしい香りが、絵里をやわらかく包んでいた。

著者 西岡 朝紀
広島市生まれ。「日々のうれしい発見から、自分やひとを大切に思えるように」というコンセプトのnote「ふむふむともくもくのこと」を開設。不定期でイラストエッセイを投稿している。
コーヒーについて
新しい目標や夢に舵を切ろうと最初の一歩を進めようとする時、自分の決断を誰かに後押ししてもらいたいもの。今回のコーヒーは、大地の力強さを感じさせてくれるアフリカ豆ベースのブレンドを浅めに焙煎し、オレンジやラズベリーのフルーティーな味わいにしました。飲み終えた時には、後ろを振り向くことなく前に進めるような、力強さの中にも明るさのあるコーヒーです。あなたの新しい門出を祝福する一杯となりますように。
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