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自分を少し愛したい時に

自分を少し愛したい時に

 愛って、何なんだろう。

 もう三十年近く生きているのに、どうにもわからない。

 

 実家から届いた段ボールに、私宛の年賀状が同封されていた。

小学生の頃から律儀に送り続けてくれるユミコの家は、いわゆるお金持ちの部類に入る。

どうして公立の小学校に来ていたのかわからないくらい、ユミコは完璧なお嬢様だった。

 

『お元気ですか? また会えたらいいね』

 

 仲睦まじく上品な、それでいていかにも成功者じみた家族写真の横に、マジックで一言添えられたメッセージ。

 

彼女は毎年どんな気持ちでこれを書いているんだろう。

ユミコとは、もう十五年も会っていない。

 

 彼女の苗字が変わっていないことを半ば無意識に確認しながら、仲の良さそうな家族写真をテーブルに伏せる。

 

「誰から?」

 

 寝癖を跳ねさせたまま、欠伸混じりのヒロトが段ボールを覗く。

 

「お母さん。お米もうなくなるから送ってもらった」

 

「あぁ、そっか。ありがとう」

 

「いいよ。実家じゃ食べきれないし、おじいちゃんもちゃんと食べてもらえる方が嬉しいって」

 

 みかんもあるよとスーパーの袋に入ったみかんを手渡す。「でかっ」と袋の中を覗いてヒロトが笑った。

 

 上京して、それなりに仕事をこなして、失敗も失恋もしながら、私はなんとか今の毎日に行き着いた。

 

 職場ではそれなりに上手くやっているし、一緒にランチを食べて笑える同僚もいる。ドラマみたいに涙を流して団結するようなことは無くても、それなりの喜怒哀楽を持ちながら仕事をして、電車に揺られて、この家にたどり着く。

それが、私が二十九年を懸けて手に入れた人生の現在地点。

 

 

「俺も農業やろうかなぁ」

 

「朝起きれないじゃん」

 

「必要になったら起きるよ」

 

 じゃあゴミ出ししてよ、と浮かんだ言葉は声にせず、「じゃあ家庭菜園とかやってみたら?」と返す。

「なるほどね」なんて言ってコーヒーを注ぐヒロトが、土いじりを始めるとは全く思えない。

 

 

 ヒロトは二年前に私をナンパしてきた男だった。

 

いわゆる「ナンパしてきそうな人」を想起させるギラついた見た目とは違う、むしろ地味にも映る普通の見た目は別に好みでもなかったけれど、なんとなく、喋るくらいならいいかとお茶に付き合ったのは、多分私の人生に変数を置いてみたかったからだ。

 

これまで無視してきた路上ナンパをする人の思考回路とか、そういうものを知ってみてもいいと思うほどに、私は何かに飢えていた。

 

「本当に喫茶店なんだ」

 

「ん?」

 

 歩きながら自己紹介をして、アイスコーヒーとカフェラテをオーダーしたあと、せまいテーブルで向き合う彼の顔をようやくまじまじと見た。

年齢は私と同じくらいだろうか。二重の割に大きくはない瞳がちょうどいいと思う。

 

「ナンパする人って、無理やりバーに連れて行ったりするのかと思ってた」

 

 私の言葉に、おしぼりで手を拭きながらヒロトが笑う。

覗く八重歯が、人懐っこい雰囲気を助長させていた。

 

「お茶ならいいよって言われたらお茶にするよ。酔わせなくても、別に仲良くはなれるしね」

 

 私たちはコーヒーで乾杯をして、他愛もない話をした。

お互い何をしているのかとか、何が好きかとか。なぜナンパをするのかとか、そういうことも聞いたかもしれない。

 

「ミキさんはどうして、今日俺とお茶してもいいって思ってくれたの?」

 

 ヒロトはゆったりと背もたれに体を預けながら、アイスコーヒーのストローを回す。

 

「金曜日の夜だから?」

 

 冗談めかした彼の言葉に「それもあるかも」と笑い、それ以外の理由を探す。

これまでに何十回何百回と繰り返した、予定のない金曜日の夜。これまでの夜と今日の違いは一体何だろう。

 

「タイミングがね」

 

「うん」

 

「よかったの。君の現れるタイミングが」

 

「ちょうど暇してた?」

 

「ううん。さっきのタイミングじゃなくって」

 

「さっきじゃなくて?」

 

「そう。私の人生全体にとってのタイミング」

 

 多分本当に、たったそれだけの理由で、私はその時ヒロトという男の人と二人で喫茶店にいた。

「へぇ」と頷いてから、ヒロトは「ちょっとわかる」と言っていた。

 

 私たちは結局素面のままホテルに行って、それから何度かデートをして、半年後くらいに彼氏と彼女と呼べる間柄になった。

 

もうアラサーなのに、私とヒロトは二人で公園を散歩したり、海に出かけたり、コンビニでお菓子を買い込んで家で過ごすことを好んだ。

お金をかけない代わりに、二人でたくさんお喋りをした。

 

「そんな人は絶対に浮気するよ」と忠告してくれる友達も多かったけれど、私にとっては大した心配事じゃない。彼は私の人生の変数なのだから、自由にしたらいい。

 

たとえ浮気をされて揉めたとしても、それもまた、私にとっては一興だった。

 

 

「何かお菓子ある?」

 

 コーヒーを淹れてきたヒロトに、「ミキも飲む?」と尋ねられてうんと答える。

 

「チョコとクッキーと、あとお煎餅かな」

 

 マグカップをもう一つ手にしたヒロトがコーヒーをテーブルに置いて、「いいね」とソファに腰を下ろした。段ボールから取り出した大袋を渡す。

 

「これ、年賀状?」

 

「あー、実家に来てたやつ。小学校の時の友達から」

 

「へぇ、すごい。返さないの?」

 

 チョコレートの包みを開いて口に放り込みながら、ヒロトが年賀状をめくる。

「すごい家族だな」と驚いているのがわかった。

 

「年賀状なんかずっと出してないよ」

 

「そうなんだ」

 

「うん。向こうもデータ一覧で住所出力してるだけだと思うけど」

 

「でも、また会えたらいねって」

 

「社交辞令みたいなもんでしょ」

 

 ふぅんと頷くヒロトの隣でコーヒーを啜る。中が洗いづらいから買い換えたいと思いながら、ずっと捨てられていないマグカップだった。

 

「こんな金持ちもいるんだな」

 

 ヒロトが年賀状を見ながらぼんやりと呟いた。

最近、今働いている古着屋の店長にならないかという打診を受けて、ヒロトは揺れているらしい。

 

 私と付き合って、結果的に女遊びをやめたらしいヒロトは、案外ごく普通の人だった。

特別女性の扱いが上手なわけでもないし、特別なデートコースを知っているわけでもない。

むしろ自分に自信が持てなくて、プレゼントのセンスも微妙。

 

ある意味での変数を与えてくれたのは最初の頃だけで、今ではもうごく普通の、自分の人生を切り拓くことに思い悩む男の人の一人という感じがする。

 

 

 お母さんからの便箋を開く。近況報告にあわせて、ヒロトくんにもよろしくというような一文と、結婚についてきちんと考えなさいというような内容が書いてあった。

 

「お母さん何て?」

 

「ヒロトくんにもよろしくって」

 

「それだけ?」

 

 笑うヒロトに、「あとは近況報告とか」と答えながらクッキーの箱を開ける。

レースカーテンから差し込む光はなんだか暖かそうに見えるけれど、きっと今日も外は寒い。

 

 

「俺たち、結婚する?」

 

 容器を引き出して、クッキーを一枚つまんだところだった。

「え?」と固まって隣を見る。

 

ヒロトはついてもいないテレビの真っ黒な画面を見つめていた。

 

 お母さんとお父さんはきっと、結婚を報告すれば大喜びするに違いない。同棲すると連絡を入れた時から、お母さんは結婚に向かって進んでいるに決まっていると勝手に思っているようだった。

 

 私だって結婚はしたい。

友達からの結婚報告LINEとか、子どもをアップするSNSだとかその手のものに、知らず知らずの間に圧迫されていた時期も確かにあった。

三十路を前にした今、決めるなら確かにこのタイミングなのかもしれない。

けれど、私たちの間で結婚の具体的な話をしたことなんて今まで一度もなかったし、描いていたプロポーズと違い過ぎて、私は今、確実に混乱していた。

 

 

「︙︙結婚、できるの?」

 

 それは私自身への問いかけでもあった。

「どういう意味?」とヒロトが私を見る。

 

「わかんないけど、お金とか仕事とか︙︙ヒロト、前に仕事変えたいとか言ってたし」

 

「別に結婚しても仕事は選べるよ」

 

「子どもとか、欲しいなら早くしないといけないし、色々考えないと」

 

「︙︙何それ、俺じゃ金もないし無理って言ってる?」

 

 口に出しているすべてが自分でも意外で、何を伝えたいのか、自分の本心がわからない。

 

「ちょっと急で、びっくりしちゃって」

 

 小さなため息をついて、ヒロトが「そっか」と呟く。

穏やかな休日が、あっという間に気まずい沈黙に飲み込まれた。

 

「︙︙俺は、このままだらだら付き合ってるのもよくないのかなと思ってる」

 

 思わず隣を見る。これまで一度も、そんなこと言ったことなかったくせに。

 

「ミキは早く結婚したいのかなって思ってたんだけど︙︙間違ってたかな、俺」

 

 クッキーを箱の中に戻す。マグカップから漂う湯気だけが、うっすらと息をしているような空間。

 

 

「︙︙ヒロトがそんな風に考えてるの、私知らなかった」

 

「何も考えてないと思ってたの? もう二年も一緒にいるのに?」

 

 

 ヒロトが私を見る。怒りなのか失望なのか、傷ついているのか悲しんでいるのかよくわからない表情をしていた。

 

「だって私たち、これまで一回もそんな話してこなかったよ」

 

 二年も一緒にいて、たくさん話をしていたのに。こんなに近くにいたヒロトのこともわからないという現実に、私は動揺した。

 

「もし結婚したら、みたいな話したじゃん」

 

「そんなの『もしも』の話だと思ってたし」

 

「九州にも住んでみたいなとか」

 

「住んでみたいけど、そこまでリアルに考えてたわけじゃない」

 

「︙︙じゃあミキは、俺との結婚は考えてなかったの?」

 

 ヒロトの声が強張る。

 

 

息をゆっくりと吐き出しながら、湯気が途切れるマグカップをぼんやりと見た。

 

 

「そういうわけじゃないけど、︙︙ヒロトはそういうの、興味なさそうだなと思ってたから」

 

 気まずい沈黙が広がる。少し空気がピリついた。

ごめんと言おうか迷っている私の横で、ヒロトが大きく息を吐く。

 

「︙︙なんだぁ、思ってたのと全然違うな」

 

 脱力するように項垂れる姿に、何か声をかけるべきかと口を開きかけたところで、彼が笑っていることに気がついた。

 

「ヒロト︙︙?」

 

「ごめん、何か可笑しくなった」

 

 何がそんなに可笑しいのと訝しむ私をよそに、ヒロトがやれやれとコーヒーを啜る。

いつもと同じヒロトの横顔。一体何を考えているんだろう。

 

「俺たち、意外と何も喋れてなかったのかもね」

 

 暖房を入れ忘れた室内に、ヒロトの白い吐息が浮かんだ。

「俺、ミキはもっと喜ぶと思ってたもん」と苦笑する口元に、またふわりと湯気が浮かぶ。

 

 

「俺、ミキと結婚したいと思ってるよ。それくらい大事だし、一緒にいたいと思ってる。俺に変わるきっかけをくれたのはミキだったし、︙︙感謝してるんだよ、これでも」

 

 いつもと変わらないトーンでヒロトが言う。寝る時によくやる、私の目元を親指で撫でる仕草がくすぐったい。

 

「そんなの初めて聞いた」

 

「うん、初めて言ったかも」

 

「︙︙いっつもゴミ出しもしないのに?」

 

 ヒロトが私の言葉にぽかんとして、それから吹き出すように笑う。

 

「ゴミ出しそんなに嫌だったの?」と笑いながら、全然気づかなかったとお腹を抱えて笑うヒロトに腹が立って、だけどなぜか笑いもこみ上げて、「当たり前でしょ」と肩を一発軽めに殴った。

 

「ごめん、本当に知らなかった。他にも嫌なことある?」

 

「そんなのいっぱいあるよ」

 

「マジかよ! 言ってよ!」

 

 張り詰めていた空気を抜くように、二人して笑いながら少しだけ泣いた。

 

私たちはこんなに近くにいたのに、いつからお互いのことを知ろうとしないままで過ごしてきたんだろう。

 

「俺ももっとちゃんと話すから、ミキももっと自分のこと伝えてくれる?」

 

 ヒロトの指が目尻を拭う。人懐っこい表情は八重歯だけじゃなくて、彼の目元や人柄によって作り出されているものなんだと今更気がついた。

 

「コーヒー、淹れ直そうか」

 

 冷めたやつは俺が飲むよとマグカップを引き取るヒロトを見送って、テーブルの隅の年賀状を手に取る。

 

私が引っ越してすぐ、「ミキがいないと毎日がつまらない」と手紙をくれていたユミコ。

年賀状のメッセージは、年々短くなっていたんだった。

 

「ヒロト、明日マグカップ買いに行かない?」

 

 

 ユミコにも、久しぶりに手紙を出してみよう。

十五年分の言葉を、ちゃんと詰め込んで。

 

 私たちの新しい門出に。お互いが一番好きなマグカップで、美味しいコーヒーを。

著者藤宮ニア
兵庫県出身の文筆家。フリーランスとしてライター/PRライター/コピーライターとしても活動する傍ら、2018年に短編小説「リトルホーム、ラストサマー」にてNovelJam2018秋の花田菜々子賞を受賞。本名は中西須瑞化。布団と夕暮れが好き。
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