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恋の切なさに浸る時に

恋の切なさに浸る時に

 いわゆる、“いい子”が大人になって幸せになる確率って、一体どのくらいなんだろう。

 「華はなんでもできるから」。子どもの頃から聞き過ぎたこの言葉、もう耳にタコができそうだ。勉強はそこそこできたし、自分でいうのもなんだけど、聞き分けのいいタイプだとも思う。

 それなのに、どうしてだろう。

 いつも華のおもちゃを欲しがって、大きな瞳に涙をいっぱい溜めていた幼馴染みのあの子。彼女のわがままには正直うんざりだったけれど、大人はみんな「もう、仕方がないんだから」などと言いながら、いつだっていうことを聞いてしまう。そして決まって華にいうのだ。

「我慢できるよね? 華ちゃんはいい子だから」

 嫌だ、なんて答える選択肢はあったのだろうかと華は思う。そういえばテレビのドラマだって、ちょっとワルな子の成長物語ばっかりじゃないか。真面目だけが取り柄の子は、物語の主人公にはなれないと相場が決まっている。

 華は今日、三十二歳の誕生日を迎えた。四年付き合った恋人の奏多は、もともと取引先の営業で気が合った。最初から熱にうなされるような恋愛ではなかったけれど、それと引き換えに空気のような居心地の良さがあった。結婚だって、当然のように考えていた。ほんの三日前までは。

 だから急に呼び出された駅前のカフェで「好きな子ができた」とあっさり別れを切り出されたときには、びっくりしすぎて声も出なかった。奏多はただ何度もごめんと謝って、最後にポツリと言ったのだ。「華はなんでも一人でできるから。でも、あの子は俺じゃなきゃダメなんだ」と。

*****

 窓の隙間から生温い風が吹き込んでくる。こんなことなら誕生日に有給なんてとるんじゃなかった。うだる暑さにあまり眠れず、今朝も早くに目が覚めてしまった。でも考えてみたら、こうして休みをちゃんと取ったのはいつぶりだろう。残業続きで平日は太陽なんかほとんど見ていないし、週末は疲れ果ててついダラダラしてしまう。「三つ先の駅に有名な商店街がある」そう、奏多が言っていたのを思い出し、簡単に身支度を整え、華は駅へと向かった。

 海へと向かう下りの各駅列車が動き出す。窓からはブロッコリーみたいにこんもりとした森が遠くに見えて、いつの間にか盛夏を迎えていたことを実感する。その駅は聞いていた通りの昭和の風情で、どこからともなく漂ってくる美味しそうな匂いに、思わずお腹がぐうと鳴る。そういえば朝から何も食べていなかった。華はお肉屋さんで揚げたてのコロッケを一つ買って、アーケードの端にあるベンチに腰掛けて頬張った。

 刹那、足元を何かがするりと抜けて、華は思わず「きゃっ」と声を上げる。驚いて見ると、淡いピンクの鼻をひくひくとさせたハチワレの猫が一度こちらを振り返り、そのまま小道へと走っていった。慌ててコロッケを口の中に押し込んで追いかけたけれど、その猫はもういなかった。

----リン、リンリン

 微かに風鈴の音色が聞こえた気がして生垣に目をやると、木造の長屋が建っている。とても古い建物のようだが、窓には真っ赤なゼラニウムが咲いていて、大切に手入れされていることが窺えた。開け放たれた引き戸の横には「猫でもわかるアート、あり〼」とある。

 おそるおそる覗いてみると、ひょろりと背の高い男性が一人、カウンターの中で本を読みながら店番をしていた。こちらに気がついて「いらっしゃい」というと、すぐに奥へ引っ込んでしまった。

 「おじゃましまーす︙︙」

 外の暑さをすっかり忘れてしまうほど、建物の中は風が抜けて気持ちがいい。コチコチと時を刻む古時計、民家を改装したと思われる簡素な空間には、実用的なお皿やカップ、可愛いのにどこか毒のあるお人形たち、吹きガラスのオブジェなど、いろんなものが並んでいる。さっき聞こえた風鈴もどうやら作品の一つのようだった。奥の部屋の隅に目をやると、さっきの猫が丸くなって眠っていた。

 「あなた、ここの子だったの」

しゃがんで額を指先で撫でると、猫はめんどくさそうに薄目を開けてあくびをした。そうしてふと、視線を上げた先、華の目には一枚の絵が飛び込んできた。

 

 それは、夕暮れの海だった。

 海月のようにゆらゆらととろけていく太陽。凪いだ水平線を境に、薄桃色から藍色へとグラデーションになった空には、一番星がきらりと瞬いている。しゃわしゃわと泡立つ湿った砂浜に、小さく描かれた二人。別れ際に手を振り合っているのだろうか。全体を包み込むあたたかな雰囲気と、深い群青に吸い込まれ、思わず華は立ち尽くしてしまった。遠くから潮騒まで聞こえてきそうなその絵に、胸がきゅっと締め付けられて目が離せない。

 心の奥からぽつり、滴が落ちた気がした。滴はあとからあとから落ちてきて、あっという間に視界はぼやけて滲んでいった。そしてなぜだか、華は奏多のことを想った。

*****

 

 奏多は一生懸命な人だった。優しくて、常識的で。いつだって私のことを一番に気遣い、「大丈夫?」と声をかけてくれた。奏多といるときだけ、私は呼吸ができた。がんじがらめに鬱々と過ぎゆく日々の中で、ただ一つのひだまりみたいな場所。窮屈な華にとっての、唯一の拠り所だったのだ。だから奏多もきっとそうなのだと信じて疑わなかった。似た者同士の二人は、そうしていつまでも一緒にいられると勝手な幻想を抱いていた。でも奏多のひだまりは、私じゃなかった。あの駅前のカフェで、いつかのあの子みたいに「嫌だ、絶対に別れない」そういって困らせて、泣きじゃくればよかったのだろうか。

 ︙︙違う、本当はもっと前から気がついていた。ふとした瞬間、奏多の瞳が、耳が、指が、心が、もうとっくに私を通り越して、別の誰かを見つめていたこと。ただそれを認めたくなかったのだ。求められていないと知ることで、傷つきたくなかったから。

----リン、リンリン

 ふと風鈴の音で我に返り、華は頬を伝うぬるい滴を手の甲で拭う。

「その絵ね、僕が描いたんですよ」

 背中から静かに声をかけられ振り向くと、ティッシュの箱を手にした先ほどの男性が立っていた。どうも、とそれを受け取りいそいそと洟をかむ。絵の周りをよくみると、右下には【グッバイ、またいつか/高橋倫也】とある。

 すると彼は唐突に、「そうだ、せっかくだし珈琲でもいかがですか? いい豆を貰ったところなんです」そういうと返事も聞かずに再び奥へ行ってしまった。

 ガリガリ、ガリ、奥から豆を挽く音が漏れてくる。しばらくすると何ともいえない、深くてやさしい香りがギャラリーいっぱいに漂ってきた。なみなみに注がれたカップを彼に差し出され、ひと口、ごくりと喉をならす。その珈琲は苦味をしっかり感じるのに不思議と口あたりはまあるくて、思わずほうっと息をつく。彼はというと、さも美味しそうに珈琲を飲み、そして絵を眺めながらゆっくりと口を開いた。

 「夕暮れって、一日の終わりじゃないですか。だから淋しさもあるんですけど、ちゃんとまた朝日が上って明日が始まる。この絵のテーマは”今日からの旅立ちと、明日への希望“です」

明日への希望。なんだか今の華には関係のないことのようにも思える。

「別れ際の二人、片方は僕、もう一人は別れた恋人がモチーフなんです」

思わずぎょっとする華に構わず彼は続けた。

「どちらもアーティスト志望で、彼女は陶芸家を目指していました。お金にも余裕がなかったから一緒に暮らしていたんですけど、突然、彼女の方から別れを告げられたんです。『あなたのそばは居心地がいいけれど、このままだときっと自分はダメになる。あなたは優しすぎる』って」

「受け入れられたんですか?そんな一方的な話」

つい食い気味に返してしまう。

「最初はそりゃあ、戸惑いました。でも僕にはなんとなく彼女の気持ちがわかったんです。自分も思い当たることがあったからかな。作品に対する誠実さとか、情熱とか、大事なものが薄れかけていたのかも。“いい絵が描けなくてもしょうがない、だって生活があるんだから”って、どこかで言い訳しながらバイトに明け暮れたりして」

 言葉が見つからず、華はただじっと彼を見つめた。

「でもこの絵を描くうちに気がついたんです。相手を思うからこその別れとか、一緒にいた時間があったからこそ生まれる作品とか︙。今がお互いの夢を叶えるための分岐点なのかもなって。いつかまたもしも彼女と会ったとき、恥じない作品を描いていられる自分だったらいいなって思って」

 そうか、この絵は二人の未来へ向けたタイムカプセルだったのか。

「二人ともすごい。私なんて、毎日後悔ばっかりで」

彼は少し考えてから、こう言った。

「︙たぶん、後悔があるから次の出会いをもっと大切にできるんだと思います。良くも悪くも、人は過去からしか学べないじゃないですか」

 自分で思うより、ずっと奏多が好きだった。けれど、きちんと気持ちを伝えていたかな、と華はふと振り返る。あの瞬間を反芻しては心に滲んでしまった苦い思いや傷跡も、いつかは癒えて、この人のように受け入れられる日が来るのだろうか。

部屋の隅に寝ている猫の額を指先で撫でてから、またひと口、珈琲をすする。

----リン

「この珈琲、すごくおいしいですね」

「よかった。ちょうどお店のマスターが新しい豆を仕入れたって、少し分けてくれたんですよ」

「お店?」

「あ、実は僕、絵を描きながら喫茶店で働いてるんです。三つ先の駅の北口にある、古い喫茶店なんですけど」

「え、そのお店︙最寄駅です。何度か前を通ったことがあるかも」

「おやおや、こんなことってあるんですね。こう見えて僕、なかなか美味しい珈琲を淹れるんですよ。ぜひ今度おやすみの日にでも、遊びにいらしてください」

 一筆書きみたいに細い目を、さらに細くしてからからと笑う倫也に、つられて華も笑っていた。

著者 小澤 和歌子
編集業、文筆家。新緑の白樺が眩しい晴れの日生まれ。カフェを紹介する連載エッセイやインタビュー、取材記事など、雑誌からWEBまで幅広く活動。つくり手の想いや、様々なモノ・コトにまつわる物語を紹介している。
コーヒーについて
しばらく会えないもどかしい恋、終わってしまったひと夏の恋・・。恋とはドキドキさせるだけじゃなく、切ない気持ちも隣り合わせにあるもの。今回は、センチメンタルな恋の思い出にしみじみと浸りたい時に、苦さの中に甘酸っぱい要素を加えたビタースイートな味わいに仕上げました。ブラジル豆でダークトーンのビター感を出して、ナチュラル精製のモカで楽しかった思い出を散りばめながら、その隙間をグアテマラでまとめます。恋の中で感じたいろんな感情を一つ一つ味わっていきたい時に。
ものがたり珈琲
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