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その気持ちが恋だと気づいた頃に
「あー、恋したい」
レジで受け取った紙コップをセットしながらぼやく。通勤時間とランチタイムの間で人の少ないコンビニに、コーヒーマシンが豆を挽く音が大袈裟に響き始めた。
「まぁた言ってる」
「篠原の『恋したい病』」
茶化すような声に振り向くと、レジを終えたらしい綾音と志保さんが呆れ半分といった感じの笑みでこっちを見ていた。綾音が隣のコーヒーマシンに紙コップをセットする。ネイルを施した細い指先が、「ホットミルク」のボタンを押した。
「ホットミルクなんて頼む人初めて見た」
「えへ。私も初めて頼んじゃいました」
志保さんのアルトに、綾音のソプラノが弾む。「何でまた」と尋ねる志保さんに、綾音が機嫌よく笑ってちらりと私を見る。
「︙︙まさか綾音、あんた︙︙」
私の嫌な予感に、綾音がぷはりと笑う。小さく挙手をして志保さんと私を交互に見ながら、綾音が可愛らしい声で告げた。
「実は正樹とお別れして、田崎さんとお付き合い始めちゃいましたっ」
ピーッ、とコーヒーが出来上がったことを知らせる音。隣でホットミルクを抽出しているマシンを横目に、ブラックコーヒーが注がれたカップを取り出して蓋を探す。
「あれ、綾音ちゃん付き合ったのこの前じゃ」
「志保さん無駄ですよ、こいつは昔からこういう女です。コーヒーとミルクどっちにしようって選ぶ感覚で、彼氏も乗り換えるんですよ」
やさぐれ半分に志保さんの声を遮れば、綾音が「ひどいなぁ」なんて声を出す。程よく上品で可愛らしいピンクベージュのリップが、唇をぷるんと弾ませていた。
「篠原は綾音ちゃんに厳しいね」
志保さんが笑うのに合わせて、今度はピーッと綾音の方のマシンが音を立てた。ホットミルクなんて、私はコンビニ以外のカフェでさえ一度も頼んだことがない。
「まぁ、大学からの付き合いなんで」
「もっと優しくしてくれたっていいですよねぇ? ナツキだってしたいならしちゃえばいいのに、恋」
そんな簡単にできるもんじゃない、と呆れながら、三人並んでコンビニのドアを潜る。ドアが開くたびに鳴る明るいメロディーが、寒空の下に私たちを送り出した。
「ナツキは恋を特別だって思い過ぎ。恋なんて簡単でしょ。この人の好きなものを分けてもらいたいなーって思ったら、分けて? って言えばいい。それだけだよ」
熱いコーヒーを恐る恐る啜る私の隣で、綾音はホットミルクを飲まずに手を温めている。
「好きなものを分けて、って?」
マフラーを巻き直しながら尋ねる志保さんに、ホットミルクをカイロ代わりにしたままで綾音が口を開く。
「私、田崎さんにおすすめされなかったら、コンビニのホットミルク飲もうなんてずーっと思わなかったと思います。恋って結局、自分の人生だけじゃ出会えないことを足していくためのものかなーって思ってて」
思いのほかしっかりした返答に、志保さんが「へぇ」と相槌を打つ。私は黙ったまま、火傷しそうなコーヒーを一口飲んだ。
***
「で、篠原はどうなの? 最近」
ワイングラスを傾ける志保さんの動作を目で追う。媚びたり、飾りっけがあったりする訳ではないのに、余裕があってしなやかな人。志保さんは会社の中でも一目置かれている存在だ。仕事もできるし、人望も厚い。こうして腐りかけの後輩を誘い出して、気分転換のご飯に付き合ってくれたりもする。私にとっても憧れの女性。憧れの先輩。
「どうってまぁ、ムカつくこともありますけど︙︙」
「違う違う。仕事のことじゃなくて」
とぼけたふりを見透かす瞳が、悪戯っぽく私を見る。深紅のワインを一口飲んで、小指をクッションにしながら志保さんがグラスを置いた。
「恋したいって言ってた件よ」
さっぱりストレートに尋ねられて、思わず半端な笑いがこぼれる。志保さんはこういう、今の時代じゃ微妙な話題になりかねないことを扱うのも上手だ。サーモンのカルパッチョにドレッシングを纏わせながら言葉を濁す。志保さんは黙って私の言葉を待っていた。
「なんか、わかんないんです、最近」
「何が?」
「恋ってどういうことなんだろうって。多分当たり前なんですけど、十代の時みたいな恋って、大人になったらもうできないじゃないですか?」
マリネされた玉ねぎとよくわからない香草もついでに咀嚼しながら、こういう香草って日持ちもしないし応用も利かないくせに高いんだよなとぼんやり思う。
「ただ好きっていうピュアな気持ちだけじゃなくなるというか。なんかそうなると、恋って何なんだろうなーって」
三杯目の白ワイン。スパークリングの繊細な気泡が、口の中を転がって消えた。
「確かに、大人になるといろいろ変わってくるかもねぇ。告白なんてあったりなかったり、先に体の相性を確かめてからって言われたり」
「大人ですねぇ志保さん」
あれ、違った? なんて嘯く志保さんと笑う。いろいろな方法で気軽に出会えるこの時代には、きっと関係性の形なんてもっともっとたくさん生まれていくんだろう。
「私が想像してたのは結婚とかそういうことですよ」
パエリアを一口運ぶ。冷めていても美味しいと思うのは、このお店が上手だからなのか、私が酔っ払いだからなのかどっちだろう。
「もう私もアラサーなんで、なんかこう、気軽な恋もしにくいっていうか」
相槌を打ちながらワインを飲んでグラスを置いた志保さんが、真っ直ぐに私を見る。少しの間の後に、志保さんの瞳が少し細まった。
「篠原さ、いるでしょ。好きな人」
「えっ?」
「本当は好きだけど、でも、って感じなんじゃない?」
志保さんの耳に、控えめなピアスが揺れている。その微かな揺れを目で追いながら、思い浮かべるのは彼のことだった。
マッチングアプリで知り合った二十三歳の彼。泉くんとは、業界も近く、いろいろなことを素直に捉える彼が可愛くて数ヶ月メッセージを続けていた。ゆるいペースで続くやりとりをリアルな出会いに変えてみたいと思ったのは、多分私の方が先。
『今度ご飯でも行きませんか?』
昔は男性からの誘いをひたすら待っていたような時期もあったけれど、泉くんへのメッセージは、割とすんなりと送れたように思う。まだ会ったことのない人だから、現実味が湧いていなかっただけなのかもしれないけれど。
『行きましょう! 東京の美味しいお店知りたいです』
写真と活字でしか知らない人間を自分のリアルに迎える瞬間というのは、何度か経験していてもいつも不思議な感覚になる。いつもより少し丁寧にメイクをして、久しぶりに髪を巻いて、けれどネイルを薄めにすることはせず、気に入っているカラーネイルのままで待ち合わせ場所に向かう。少し早く到着した私が『つきました』と連絡した数分後、返信を待っている私に、声をかけてきたのは長身の男の子だった。
「natsukiさん、ですよね? 泉です。初めまして」
予想通りの可愛らしい笑顔と、予想外に大人びた態度と。お互いに印象がどうだとかいう話を交えながら、私たちはご飯に行って、仕事の話や趣味の話をして、健全に解散をした。深い時間まで飲んでいたけれど、泉くんはホテルにも自宅にも私を誘うことなく、礼儀正しくお礼を言ってタクシーに乗り込んだ。その後も変わらずメッセージは続いていて、けれど、「次」の話は具体的には出てきていない。
まだ二十三歳の彼は、仕事も、社会人としての付き合いも、出会いも、全てがここから広がっていく時だ。収束に向かおうとし始めている私とは、きっと、全てが違っている。
「いやぁ︙︙無いですよ、付き合うとかは」
私の返事に、志保さんがふふと笑う。「いるんじゃない、誰か」という指摘に、グラスの脚を指で弄びながら唸った。
「向こう、年下だし。彼女いないって言ってたけど、本当かもわからないです」
超遊び人かも。なんて口にしながら、自分が今適当に喋っている、ということを実感する。綾音を見ていて、会社の人と付き合うのは私にはできないと早々に思った。そういう対象に見たくないというのも一つだし、もし付き合って別れた後に、平然と顔を合わせて仕事をする綾音のような胆力は、私には備わっていないと知っている。だから必然的に外へ出会いを求めるようになって始めたアプリ。これまで何人かと会って、そういう関係になったこともあったけれど、長続きはしなかった。別れればもう二度と会うことがなくなる人。友達も職場も違う相手は、私の人生に突如現れる黒点のように特異な存在だった。
「恋愛にしちゃうと、密度は高くなるけど、どこかで終わりがきちゃうじゃないですか。︙︙なんか今回は、それよりも長く居られる方がいいかなって」
二回目の約束もできていないのに何を言っているんだろう。結構酔っているのかもしれないと思いながらワインを流し込む。向かいの席の志保さんがふぅんと相槌を重ねてピザを齧った。冷めたチーズは、伸びたりせずにさっくりと裂けて消えていく。
「私はさ、終わらせたくないと思うことが、恋の始まりなんじゃないのって思うんだ。私も今、そういう人と一緒に暮らしてるから」
「え、志保さんってご結婚︙︙?」
「籍は入れてないけどね。でも、点で終わらせたくないと思った人だから、もう少し人生に入ってきてもらうことにした」
志保さんの顔を見ながら、今朝の綾音の表情も思い出す。幸福のそばにはいつも、覚悟のような何かがあるものなのかもしれない。
「篠原がよく言う『恋したい』って、つまりはどういうことなんだろうね」
軽いトーンで志保さんが言って、「そろそろ行く?」とワインを飲み干す。気づけばテーブルの上はあらかた片付いて、いい感じの時間にもなっていた。
お手洗いに立った志保さんを待つ間、スマホを開いて泉くんとのやりとりを眺める。既読で止まったメッセージ。
「仕事が忙しくなりそうとか言ってたけどさぁ︙︙」
呟きながら、これは脈ナシでしょう、と思う。改めて眺めると、ご飯に行ったあの日から、二人ともメッセージの文面がずいぶん砕けた感じに変わっていた。
「︙︙点で終わらせたくない、かぁ」
いい感じにアルコールが回った頭で、志保さんの言葉を繰り返す。綾音も志保さんも、自分の力で自分の恋を前進させている。
「︙︙いいなぁー」
「何が?」
戻ってきた志保さんに「何でもないです」と答えれば、そう?と首を傾げて志保さんが笑う。
「あ。ねぇ篠原、帰りコーヒー飲んでかない? 夜にやってる喫茶店があんのよ。超穴場」
上着を羽織りながらニヤリと笑う志保さんに「え、行きたいです」と返す。「よっし。じゃー出る準備して」と促されて慌ててコートとマフラーを身に着ける私に、志保さんはまたくすくすと楽しそうに笑った。
暖かかった店内に馴染んでいた肌が、ツンと冷えた風に晒される。思わず「寒っ」と声をあげるけれど、冷たい夜風は熱った頬に心地よくも感じていた。
クリスマスとお正月が過ぎた街は、それでもまだイルミネーションを少しばかり残して煌めいている。もうすぐバレンタインがあるから、そこまでは敢えてロマンチックな雰囲気を残しているんだろう。
そういえば泉くんは、コーヒーをよく飲むと言っていた。『夜の喫茶店って知ってる?』くらい、送ってみてもいいのかもしれない。点を、自分の力で少しずつ繋ぐために。
かじかむ指先で、スマホのロックを開く。少し先の信号が、チカチカと忙しく点滅を始めていた。
- 藤宮ニア
- 兵庫県出身の文筆家。フリーランスとしてライター/PRライター/コピーライターとしても活動する傍ら、二〇一八年に短編小説「リトルホーム、ラストサマー」にてNovelJam2018 秋の花田菜々子賞を受賞。本名は中西須瑞化。眠っている時間と夕暮れが好き。
- コーヒーについて
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今までは友達としてしか見ていなかった。ただ年下のかわいい後輩だと思っていた。そんな相手に、ふとしたきっかけで友達以上の気持ちが芽生える瞬間がくる、その気持ちが恋だと気づいた時に。今回のブレンドは、そんなドキドキとキュッとする恋する気持ちをイメージにしました。イチゴタルトのような甘酸っぱい味わいに、さらっと滑らかな質感のブレンドを、エチオピアの豆をメインに浅煎りに仕上げました。気づいてしまった恋の気持ちにブレーキをかけることなく、そのまま背中を押してくれる一杯となりますように。