タップで読む
恋のはじまりに胸が弾む時に
ひとりぼっちはいいものだ。
冷たい朝も、生ぬるい昼も、二十四時間全部が自分のものだし、一〇〇%自分の好きなように行動もできる。
だだっ広い公園の朝の空気だって、独り占めし放題だ。人がいない公園の朝の空気は、ここが東京の街中にある公園だとは思えないほどに人の匂いがしない。ただ、朝の光とともに水が蒸発して空に浮いてきた土の匂いだけがする。
しっとり湿ったベンチに座って、すぐ隣に置いておいたホットコーヒーを一口飲むと、「ふおあ」と声が出た。誰の耳にも届かないまま、その声は朝の公園に溶けていく。
東京のど真ん中にある公園に入って歩いて七分、大きな木の下にあるお気に入りの場所を見つけたのは、上京して半年後の春だった。そこから二週に一度は、ここを訪れて本を読んでいる。お供は、すぐ近くにあるコーヒーショップの珈琲と、一冊の本だ。
春も夏も秋も、珈琲と小説と一緒に、何度もここを訪れた。一冊の小説を読む数時間、小さな公園から、私は物語という旅に出る。
週末に読む本とお供の珈琲を選ぶときには、生きてる心地がする。本を選ぶ、好きな珈琲ショップに行く、週末の過ごし方を自分で決める。ひとつひとつ選び取っていくほど、自分の輪郭がはっきりしてくるように思える。
思えば、人生の殆どを手触り感もないまま過ごしてきてしまった気がする。関西の地方都市で育ち、地元で有名な大学への進学し、そして大手企業へ就職する。それは川の上に置かれた飛び石を渡るように、あるいはスタンプラリーのように、人生はあらかじめ決められた道筋をなぞって進んでいくのだと思っていた。
地元の小さな町では、週に一度は「世間」という言葉を聞いた。スタンプラリーのカードに載っている道筋以外の人生を選ぶことは、卒業ではなく脱落だった。
だからこそ、新卒で入社した会社を辞めた日の帰り道、生きてきた中で一番、吹いていく風が生ぬるく感じた。「ありふれた人生の外側にも、人生があるんだ」と思った。
働いていた会社はいわゆるブラック企業で、毎日終電まで働くし、仕事を休んでしまった次の日には、部署のメンバーの前で大きな声で謝罪しなければならなかった。頭に血が上って、目の前がチカチカしだすまで、頭を下げ続けた。そんなエピソードを話していても両親は、自分の娘がはじめて入った会社を数ヶ月で辞めてしまう事実に怯えているようだった。一度、母がパソコンで「子供 ニート 対策」と検索しているのを見かけた。だから、「会社辞めたらどうするの」と聞かれたとき、「東京に行くよ」と言ってしまったのだ。
新宿駅から四十五分。乗り換え二回。最寄り駅から徒歩十三分のワンルーム。なんとか見つけた東京の転職先からもらえる給与の三分の一以上を費やして、住めるのは小さな小さな部屋だった。だけど、その小さな私の城で、私はこれまでで一番沢山の空気を肺に入れて深呼吸できる気がした。
“お弁当は小さな宇宙だ。色とりどりの惑星が、角丸の世界の中にぷかぷかと浮かぶ。”
色とりどり。私の家のお弁当はほとんどおかずが茶色かった気がする||。そんなことを思いながら小説から顔をあげた。今日は、恋人のためにお弁当を毎日作る女の子の物語を読んでいる。右手のそばに置いた、ブレンドコーヒーを一口飲む。最近は少し肌寒くなってきて、なおさらホットコーヒーが美味しい。本格的な冬に向けて、保温ポットを購入して、珈琲ショップに持ち込んでいる。いつまでも温かい珈琲を保温ポットで飲むと、身体がじんわり温まって、自分に優しくしている気持ちになる。
ザッザッザッザッ。
ぼおっと、色づき始めた公園の木の葉っぱたちを見つめていると、右耳に落ち葉を踏む音が聞こえた。まただ。
顔を動かさずに視線だけ右側に送ると、百メートル程離れたところに、灰色のスウェットを着た若い男性が、スケッチブックをイーゼルに置くところだった。
これまで、週末の早朝から午前中を公園で過ごしていたが、数週間前から、早朝は寒くて午後から公園に行くようになり、誰もいなかったこの場所を、お気に入りの場所として使っている人がもう一人いることを知った。毎週、同じような場所で、同じような絵を描いている。同じような灰色のスウェットで。
私にとって、公園は心ときめくお出かけの場所だからお気に入りの服を着てきているのに、だらしないスウェットを着ている人を見ると気持ちが下向く。
そういえば、お弁当の小説を読んでいたら、お腹が空いてきてしまった。今日はこれくらいで引き上げて、遅いランチを食べに行こう。
立ち上がって、“彼”の後ろを通って、公園の出口へと歩いていくと、やっぱり今日も、いつもと同じような色の絵の具を、白いスケッチブックに塗り始めている。彼がふと、左手で珈琲を飲みながら、右手で絵の具を塗る。彼が元ある場所に置いた珈琲カップを見て、それがいつも通っている珈琲ショップのものだと気づくまでに、時間はかからなかった。
冬と珈琲の相性はいいし、クリスマスと珈琲の相性も良い。クリスマスソングに心を浮き立たせながら珈琲を飲んでいると、すこぶる大人になった気持ちになる。今日は、そんな冬の日常の中でも、とびきり心が浮き立っていた。おなじみの珈琲ショップのクリスマスフェアでくじ引きが行われていて、当選すればずっと欲しかったショップオリジナルのマグカップが貰えるというのだ。左手に珈琲、右手にくじ引き券を持ちながら、列に並ぶ。平静を装って、あくまでも、どうでもいいように、くじ引きの箱に手を入れる。くじを引くと、終始ニコニコしている店員さんが、その紙を受け取ってくれた。そしてくじの中身を開いて、眉毛をへのじに曲げた。
「え、はずれ?!」
思わず声に出してしまった。
「はい〜ごめんなさい。また明日もやってますので」
「明日って平日︙︙」
店員さんはへの字の眉毛のまま、申し訳無さそうに、首を横にかしげた。その表情にとたんに恥ずかしくなる。いつも来ているあのお客さん、意外と貧乏くさいと思われただろうか。
「タッタッタッタッ」
聞き覚えのあるリズムに振り返ろうかと思ったら、先に肩を叩かれた。振り返ると予想通りの景色が目に入った。灰色のスウェットが目の前に立っている。
いつもの珈琲ショップにはテラス席があるが、座ったのは初めてだった。隣にはスウェットの彼、目の前には欲しかったマグカップ。彼が偶然くじ引きであたりを引いて、私にくれようとしたのだった。私がよっぽどこのカップを欲しそうに見えたのだろうか。恥ずかしくて心がしぼんだ。スウェットの彼は、気にしない様子で外を見ながら珈琲を飲んでいる。
「何飲んでるんですか」
「カフェモカ、ですね」
「大人の男性なのに甘いもの好きなんですね」
「甘いもの好きに男も大人も関係ないでしょ」
「︙︙ごめんなさい」
近くで見るスウェットの彼は、端正な顔立ちをしていて、こんなおしゃれなお店なのに自然体で、標準語はひんやり冷たい響きで、胸が苦しくなった。私はこんなところに張り切ってきていて、発言は偏見まみれで、おどおどしてて。
「いつも||あのベンチで何してるんですか? あー」
スウェットの男性は、やっと私の方を見て、顔をじっと見つめた。
「私、ミキっていいます」
「ミキさん、は、ほぼ毎週いますよね」
「毎週、あの場所で本を読むのが好きで」
「いいですね」
「あの、」
今度は彼をじっと見てみたが、彼はもう外の景色を見ていて全くこっちを振り向かない。
「サトルです」
「はあ、サトルさん。毎週何の絵を描いてるんですか」
「公園」
「そ、そりゃそうでしょ!」
思わず返したら、外を見たままサトルさんがにやっと笑った。この人いじわるなんだな。きりがないので、そばに置いていたスケッチブックを勝手に拾い上げてめくった。彼は「ちょっと」と言ったけど、それ以上抵抗しなかった。
そこには、見事に同じような要素の、だけど少しずつ違う色で描かれた景色が、何ページにも渡って書かれていた。
「きれい。サトルさん、絵、上手ですね」
「ずっと同じの描いてるからね」
スケッチブックから顔を上げて彼の方を見ると、彼の長いまつげの下に隠れた瞳が私の方を見ていた。ここぞとばかり、心を込めて言った。
「サトルさん、変な人ですね」
それから、私たちは公園で会うたび挨拶をするようになった。でも、それだけだ。挨拶を終えたら、ただひたすらお互い一人で本を読む、絵を描く。恋愛小説を読んだ日も、SFを読んだ日も、暗い話を読んだ日も、物語がくれる冒険から帰ってくると、変わらない絵を描いている彼の姿が百メートル向こうにあった。
その日は、公園の入り口に着いた頃から細かい雨が降ってきた。コンビニの傘は高くて買いたくないけれど、仕方なく払うことにして、いつもの場所に急いだ。サトルさんが雨に濡れているかもしれないから、その時は、この傘に入れてあげて珈琲でも飲もう。
しかし、いつもの場所に着いても彼はいなかった。天気予報をちゃんと見て、今日は来ないことにしたのかな。いやでも今日はどこの天気予報も晴れだったんだけどな。
振り返って灰色のスウェットが目に入った瞬間に、自分が公園に来る目的の一つが彼に会うことになっている自分に驚いた。
「ああ、傘持ってたんですね」
「サトルさんも、傘持っててよかった」
「それ、入り口のコンビニで買えるやつ」
「サトルさんも」
公園の入口近くにあるコンビニには、なぜか透明のビニール傘が品切れで、クマのキャラクターの傘しか打ってなかったのだ。私たちは公園の端っこで、クマのキャラクターが微笑む絵柄がプリントされた傘を、二人仲良く持って向かい合っていた。
「前から気になってたんですけど」
いつもの珈琲ショップの窓際の席に、私とサトルさんは並んで座っている。クマのキャラクター柄の傘は、足元に並べて二つ置いた。
「どうしていつも、同じ絵をずっと描いてるんですか?絵うまいんだし、別のことも描けばいいのに」
そう尋ねると、いつもの洗練された標準語が、表情と一緒に少し崩れて返ってきた。
「あの公園、小さい頃から母さんと通ってんだよね。実家、この近くだから。母さんはその後出ていってもういないんだけど、この公園だけは変わらないからずっと来てたの。でもさ、景色ってどんどん変わってくんだよね。同じように見えて。だから、描いて残しておかないとダメだなと思って」
「そうか、変わっていくことが怖い人もいるんだ」
「変わっていくのが楽しい人なんているの」
「変わらないほうがずっと怖くないですか」
雨に濡れる東京を見ながら、地元のことを思い出した。あのままずっと、人生をスタンプラリーのように思っていたらどうなっていたのだろう。だけど、両親の愛おしい変わらなさも同時に思い出すことができた。過保護ではあるものの、ずっと変わらず私を心配しながらも大事にしてくれた両親。地元にある全てが、変わらないことで錆びているわけではない。変わらずに美しいものも、変わっていくから愛せるものもあるのだ。
「変わっていくことも、楽しめたらいいですね」と、サトルさんに言ったけれど、それは裏返しの言葉を自分に言っているようだった。とはいえ、未来によって過去の見え方は変わる。いつか、変わらないものを愛せるように、今を楽しまなければ。
「そうですね。ブレンドコーヒーも美味しいし」
「え、モカやめたんですか?」
「いつも、ブレンドコーヒー美味しそうだから」
「うそ、私もそう思ってカフェモカ飲んでる。カフェモカも美味しいですね」
「男でも好きになるのわかるでしょ」
「わ!根に持ってる!ごめんなさいってば」
誰かと出会って、変わっていく。誰かと出会って、新しいおいしさを、楽しさを、幸せを見つけていく。ブレンドコーヒーはやっぱり一番美味しいけれど、カフェモカも美味しいと感じられる、そんな感性を持っていたいと思った。
「珈琲一緒に飲むって面白いですね」とサトルさんが言ったけど、その意味がわからなくて黙ってじっと彼を見つめる。
「なんていうか、一人で飲んでるのとぜんぜん違う」
「あはは、なにそれ。——でも、両方楽しいですね」
「うん」
珈琲をひとりで選ぶとき、自分の輪郭がはっきりする。珈琲は、自分一人だけの時間を彩ってくれる。けれど、誰かと珈琲を飲むとき、”時間をシェアする”という楽しさも生まれる。一人の時間が楽しいから、二人の時間も楽しい。
「おすすめの小説教えて下さい」
「えーっとね」
自分も、誰かも。変わらないことを、変わっていくことを。楽しむ大人になりたいと思った。珈琲ショップの外側で降っている雨は、刻々と強さを変えて表情を変えていた。
- 著者 りょかち
- 一九九二年生まれ。京都府出身。神戸大学卒。学生時代より、ライターとして各種ウェブメディアで執筆。新卒でIT企業に入社し、アプリやWEBサービスの企画開発・コンテンツマーケティングに従事した後、独立。現在では、若者やインターネット文化についてのコラムのみならず、エッセイ・脚本・コピー制作のほか、若年層に向けた企業のPR支援も行う。著書に『インカメ越しのネット世界』(幻冬舎刊)。その他、朝日新聞、幻冬舎、宣伝会議(アドタイ)などで連載。
- コーヒーについて
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きらめく街のイルミネーション、ときめくような新しい出逢い。この時期は、なんだかワクワクする出来事が起こりそうな予感。今回のコーヒーは、クリスマスツリーとキラキラ輝く電飾をイメージして、気分を上げてくれるライトローストなブレンドに。
柑橘系のフルーツを想起させる明るい酸味と、チェリーやベリーの甘さのある上品で芳香な香りが印象的です。
心躍るような新たな出逢いの門出を祝福する一杯となりますように。