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恋の切なさに浸るとき

恋の切なさに浸るとき

 夢を見た。ぼやけた夢だった。よく見えないけれど、そこに男の人が立っていることはわかった。それが遼なのか、森野さんなのかはわからない。近づこうとしたら離れていく。逃げ水みたい、と思ったときに目が覚めた。

 起きて最初に感じたことは、部屋中が夕暮れの気配に包まれている美しさでも、汗ばんだ肌の不快さでもなく、安心感だった。よかった、私は彼らのことを思い出にできつつある。私の夢に出る人物は、いつも過ぎ去った人々なのだ。

 ベランダに出ると、外はやわらかい色あいになっていた。太陽が一日の終わりの光を放ちながら沈んでいく。きれいな赤にじわじわと迫る夜の色。その間に広がるやさしい青紫色。

「紅碧」

 思わず口をついて出た。べにみどり。遼に教えてもらった色だ。

 遼は私と二年弱同棲していた恋人だ。脚本家を目指していて、単発のバイトに出る日以外は昼も夜も家にいた。言葉の扱いがうまく、ちょっとした出来事も面白おかしく話してくれたし、映画に出てくるような言葉でも恥ずかしがらずに言う人だった。

 一緒に暮らし始めた頃のことだ。夕方、洗濯物を取り込んでいたら、隣に遼がいた。

「手伝ってよ」

 私が言うと、遼は両手を伸ばして言った。

「あとでね。だって、今こんなに色彩豊かな時間なんだよ。」

 私は手を止め、遼と同じ方向を見た。赤に橙色に黄色、深い青に淡い青。空はあまりにも多くの色を抱えていた。

「俺、あの色が一番好き。紅碧色」

「べにみどり?」

「そう、赤と空色の中間の色。青紫のような色」

 私は空の中から、遼の好きな色を探した。指をさして

「あの辺の色のこと?」

 と訊いた。遼はうなずいた。とろとろと溶けるような紅碧色。青にも紫にも見えるあやふやな色。私も大好きになった。遼がいなくなった今も好きな色だ。

 私はベランダの壁にもたれて深呼吸をした。深く息を吸うとさまざまな匂いがした。埃や木や排気ガス。その中にほんの少しコーヒーの匂いも感じた。

 この夏、同じアパートで暮らす森野さんという男性と親しくなった。遼と別れた後、私は出社時刻を早めた。そして森野さんとエレベーターで顔を合わせるようになったのだ。

 最初は挨拶を交わすだけだった。しかし、3日連続で森野さんとエレベーターに乗り合わせたとき、笑ってしまった。日々の生活リズムを変えると、思いがけない出会いがあるものだ。

 仲良くなるきっかけは、森野さんに

「コーヒーお好きですか」

 と訊かれたことだった。

「ええ、まぁ」

 私は答えた。

「よかった。実は家にコーヒーがあふれていて︙よかったらもらってください」

 森野さんは、ほっとした表情で言った。

 次の日曜日、約束した十一時に森野さんはコーヒーを持ってきた。

「友人がコーヒー好きで、たくさんくれるんです。もらってくださって助かります」

 私はお礼を言って受け取り、

「あの、せっかくだったら一緒に飲みませんか」

 と誘った。その瞬間、自分に驚いた。私はどちらかというと受け身な性格で、自ら人に声をかけたりはしない。もしかしたら遼のいなくなった部屋で一人、コーヒーを飲むことが耐え難かったのかもしれない。森野さんは一瞬戸惑いを見せたが、「せっかくなら」と部屋に上がった。

 お湯を沸かしている間、ドリッパーにフィルターをセットし、もらったばかりのコーヒーを開ける。香ばしい香りがキッチンに広がる。

「あの、よかったら僕がコーヒー淹れましょうか。友人にしごかれたんで、少し自信があります」

 森野さんは遠慮がちに言った。私は「お、どうぞ」とケトルを渡した。

 平らにしたコーヒーの粉にお湯を注ぐと、粉が水分を含んでふわっと均一に盛り上がる。

「コーヒーが新鮮な証拠ですよ」

 誇らしげに森野さんは言い、ケトルを持ったままコーヒーが膨らむ様子を見ている。わき上がってしぼんでいくコーヒー。ぽたぽたと落ちる黒い雫。

「コーヒーは焦げ茶色だけじゃないんですね。泡は穏やかなベージュ、粉が膨らんだところは茶色、それからサーバーに落ちるコーヒーは黒に近い茶色」

 私が目に見えるまま言うと、森野さんは少し驚いた表情で私を見て微笑んだ。

「そうか、そういう楽しみ方もあるんですね。コーヒーの色か。確かに茶色にもいろいろな種類がありますね。香りと味だけじゃない。コーヒーは自由に楽しむものでしたね」

 その言葉に、私の胸は鈍く締めつけられる。

 コーヒーは楽しむもの。

 遼はコーヒーを楽しんではいなかった。酒の酔いを醒ますために飲んでいた。

 朝、私が会社に行く前にコーヒーを淹れていると、遼は寝ぐせだらけの頭で寄ってきた。

「俺にも淹れて」

 と言って。脚本の公募に落選するたびに酒を飲んでいた遼は、私が家を出た後またすぐ眠るとしても、必ず一緒にコーヒーを飲んだ。いつしか毎日酒を飲むようになった遼がまともな状態になるのは、コーヒーを飲んでいる間だけになった。それはきっと彼も気づいていた。だから、遼は目の下にクマがあっても起きてきたのだ。あのコーヒーは、私と遼が普通に会話するための一つの儀式だった。

 遼が酒の金を私の財布から抜いているのは、ずいぶん前から気づいていた。財布の中にお札が一枚もないときもあった。

 ある日会社で嫌なことがあり、疲労を抱えて帰宅したら遼がまた酔っぱらっていた。私は苛立ち、つい「そのお酒は誰のお金で買ったの」と言ってしまった。

 遼は激しく怒った。グラスを割り、「ふざけるな」と怒鳴った。一通り荒れ狂った後は、「信じて」と言って泣いた。子供みたいだった。ばかばかしいけれど、悲しませてはいけないと思った。それでもなんと声をかけたらよいかわからず、黙っていた。その日、遼は家を出て行った。翌朝から私は早く出勤することにした。

 月曜日の朝、エレベーターで森野さんと会った。私は森野さんに会えることを期待していたと思う。だから、上の階から降りてくるエレベーターの階数表示を見て、あわてて駆け寄りボタンを押したのだ。

「おはようございます」

 私が言うと、森野さんはふっと笑ってこう言った。

「あの、敬語やめませんか。会社でもないし」

 その言葉に、私はややひるんだ。数回顔を合わせて一度お茶をしただけの人と、急に友達口調にはなれない。それに、親しくなることでなにかが抑えられなくなるような気もした。

 私が逡巡していると。森野さんははっきりした声で

「おはよう!」

 と言った。その時、エレベーターが音を立てて開いた。1階のエントランスには外からまぶしい日差しが入っていた。私は軽く下を向いて言った。

「昨日はありがとうございます」

 森野さんは笑っている。

「そうか。この前仲良くなれたと思ったんだけどな。とりあえず、僕は敬語をやめてもいい?」

 私は頷いた。外に出ると、少し歩いただけで汗ばむような暑さだった。空には一つ雲が浮かんでいた。

 次の土曜日、森野さんの家に行くことになった。聞いていた通り、コーヒーだらけの家だった。森野さんはコーヒーを飲みながらこう言った。

「先週、君と一緒にコーヒーを飲んで気づいたんだ。いつも飲んでいるコーヒーは、友人に『おいしいでしょ』と言われて飲んでいたなって。僕は、誰かに感想を決められる前に自分で感じたかったんだ」

 私は、カップを見つめて笑った。その時、コーヒーに陽が差した。黒いコーヒーに明るい光。もう日が傾き始めている時間だった。

「紅碧色って知っていますか」

 私が訊くと、森野さんはカップを置いた。

「知らないなぁ。赤と緑って補色だよね?黒くなりそう」

「みどりは、草のような緑じゃなくて、この碧」

 私は机に「碧」を指でなぞってみせた。

「空色という意味だそうです。だから、紅碧は赤と空色を混ぜた青紫のような色です」

「へぇ、夕方みたいな色だね」

 昼でも夜でもない夕方みたいな色。あいまいな時間の色。

「今の話で思い出したよ。『切ない』という言葉があるよね。あれは、寂しいとか悲しいという感情だけでなく、昔は何かを大切に思うという意味もあったらしい。それってあたたかいよね。寂しい気持ちとあたたかい気持ち。正反対な気がするけれど、一つの言葉になっている。なんだか紅碧っていう色みたいじゃない」

 私は切なさについて考えた。遼のことを思い出すとき、私は切なくなっているのだろうか。

「僕は時々切なくなる。例えば友人にコーヒーの感想を決めつけられたとき、それから今みたいな美しい夕方を見たとき。もしかしたら自分の中で小さな終わりを感じたときに切ないと思うのかもしれない」

 そう言う森野さんの目は深い茶色だ。

「わかる気がします」

 私はコーヒーを見つめたまま言った。胸に迫るような悲しみと、それでもうれしい瞬間はあったという記憶。冷たい青とあたたかい赤。夕方のほんの短い時間に見える色。だから夕暮れは追憶の時間なのかもしれない。

 それから数日後、森野さんが女の人と手をつないで歩いているのを見た。私は知っていた。森野さんの家にあるマグカップが女性ものだということを。コーヒーを持ってきていた人はきっと女の人だろうと思っていた。私は空を見上げた。雲と雲の間から見える空は青かった。

 次の日の朝、エレベーターで森野さんに会った。

「見ましたよ」

 私は明るく言った。森野さんは心もち下を向いて、そっか、と言った。

「ごめん。隠すつもりはなかったんだけど」

 隠すつもりなんてなかったのだろう。あくまで、私たちはコーヒーを自由に味わう仲間なのだ。

「この機会に言っておくと、もうすぐ引っ越すんだ」

 森野さんがそう言ったとき、エレベーターが一階に着いた。駅までの道、森野さんはいつもより口数が多かった。

「同棲すると決まってから、カフェで働く彼女は自分の好みを僕にアピールし始めた。北欧の家具がいい、植物をたくさん置きたい、コーヒーを一緒に飲みたい。こだわりと主張が強い彼女に少し辟易した。窮屈さも感じた。同棲を決めて良かったのだろうかと思ったときに君に出会った。君との時間は自由でさっぱりしていて楽しかった。だから彼女のことは言わなかった。卑怯だろ」

 森野さんは困ったように笑った。私は首を振った。

「でも、僕も自由に自分の考えを言えばよかったんだよな」

 その後、エレベーターで森野さんと会うことはなくなった。彼は家を出る時間を変えたのだろう。気が付いたら、森野さんの部屋は空き部屋になっていた。

 今思えば、この夏は忙しすぎたのかもしれない。遼と別れて森野さんと出会い、離れていった。私はベランダから部屋に戻り、コーヒーを淹れる。森野さんからもらったコーヒーは、あの時のように膨らまない。それでも香りは芳醇で、森野さんと過ごした時間と共に遼と飲んだ朝のコーヒーも思い出させる。

 アル中の遼と過ごした長い日々と森野さんと過ごしたわずかな時間。それは、思い出そうとすれば、寂しさがさざ波のように立つけれど、その中には心温まるものも確かに感じる。もう二人ともいないけれど、彼らは私に夕方の美しさやコーヒーの楽しさを教えてくれた。

 コーヒーを持ってもう一度ベランダに出る。すでに太陽の姿は見えないが、まだ空を静かに照らしている。コーヒーを一口飲むと、深い苦みとコクが胸に広がった。空には小さな星たちが淡く光っている。儚い青を背景に、瞬く複数の星たちがひとつの終わりを告げていた。

西岡 朝紀(にしおか あさき)
広島市生まれ。「日々のうれしい発見を発信して、人を大切に思えるように」という願いのもとnote「ふむふむともくもくのこと」を開設。イラストエッセイを投稿している。
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