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もう一息、頑張りたい自分に

もう一息、頑張りたい自分に

 トゥルルルルル。

 私は毎日、三分に一度のペースでこのベルの音を耳にする。

「二番線、ドアが閉まります」

 階段を駆けおりてきた人々が改札を通りぬけ、大波のように四方八方へ広がっていく。

 発車ベルの音は、私にとっては仕事の合図だ。お客さんが店にどわーっとなだれこんでくる合図。途方もなく忙しい、目が回りそうな時間が始まる合図。ここは、駅の構内にあるベーカリーだ。

「いらっしゃいませ。おはようございます」

 お客さんが入ってくるたび、ぐにっと笑顔を作って挨拶をする。最初は慣れず、頬が筋肉痛になったものだが、五年経った今では、パブロフの犬のように反射的に口角が上がる。

 焼きたての食パンからふんわり漂う甘い香り、フレンチトーストの美しい焼き目、チーズパンのこっくりとした照りと艶︙︙。

 思えば昔はどれも新しさに満ちていて、なんて幸せな風景なのだろうと思った。パン屋巡りが趣味だった私にとって、パンに囲まれる環境は「のどから手がでるほど欲しいもの」のはずだった。

 でも今は、面白みを感じない。毎日同じ音と色と匂いのなかで、機械のようにパンを運び、笑顔を製造し続ける。素早さ重視で、マニュアル通りのコミュニケーションを繰り返す。そんな風に働いているうちに、疲労ばかりが溜まってしまった。

 

「いらっしゃいませ。おはようございます」

 ちゃんと笑えているだろうか。不安に思いつつ顔を上げる。

 よれよれのワイシャツを着た男性、小綺麗なワンピースにハイヒールという格好の女性、白いTシャツに黒いスキニーパンツを履き、カクカクした革のリュックを背負ったベンチャー企業役員風の男性。

 この時間のお客さんのほとんどは近くのオフィスで働く人で、出勤前に手短に朝食や昼食を調達していく。だから皆せかせかしていて、立ち止まらない。流れるようにトレーとトングを手に取り、迷うことなくさっとパンをのせてレジにやってくる。

 あんぱんさん、クリームパンさん。えーっと︙明太フランスさん、あの人は初めて見る人、カツサンドさん、カレーパンさん、初めて見る人、焼きそばパンさん、あ、チョコクロさん!

 名前を知らない彼らのことを、私はひそかにパンの名前で呼んでいる。常連客には繰り返し同じ商品を買う人が多いので、何度も応対しているうちに顔とパンが結びつくようになったのだ。

 そうやってパンの名前を当てながらレジ応対をしていると、チョコクロさんの順番が近づいてきた。ミントグリーンのブラウスに檸檬色の小花が散りばめられたスカート。いつも通りの清楚な装いだ。トレーには定番のチョコクロワッサンと、チーズパン。彼女は三ヶ月前からよく来てくれるようになった。

 チョコクロさんは、疲弊しがちな朝に心を和ませてくれる、優しいそよ風のようなお客さんだ。繊細で気を遣うタイプなのだろう。わざわざ目を合わせて会釈をしてくれる上、五千円札や一万円札で支払うときには「大きくてすみません」と申し訳なさそうに言葉を添える。お金や商品の受け渡しは丁寧で、やりとりしていてすこぶる心地がいい。「ありがとうございました。またお越しくださいませ」と挨拶すると、にこっとほほえんでくれる。

 不機嫌な人が多い朝、彼女がくると、私はいつもほっとする。酸素たっぷりのみずみずしい森の空気を吸ったように、さわやかな気持ちになる。

 でも。

 今日はどうも様子がちがう。

「いらっしゃいませ」

 頭を上げると、むすっとした暗い顔が目に入った。

 瞳は光が少なく、頬の肉も口角も、垂らした油絵具のようにべっとりと下がっている。その視線はパンでも私の顔でもなく、灰色のレジの角に向けられている。

 何かあったのだろうか。

 ふしぎに思っていると、彼女の口が動いた。

「早くしてもらえます?」

 えっ。

 びっくりして、早くしてほしいと言われているのに手が止まる。こんなにいらだっている彼女をみるのは初めてだ。まるで別人じゃないか。

「︙︙はい、すみません」

 あわててパンをトングでつかみ、ビニール袋に入れる。

「丁寧にお願いします。昨日のチョコクロ、潰れてました。ぐちゃって、哀れなくらいに」

 彼女はそう言ってトレーに五百円玉を置いた。 

 私はますます驚き、口をぽかんとあけそうになる。

 手早く対応しなければならない朝の時間、私にはたしかに雑なところがあるかもしれない。でも、パンが潰れるほど強くつかんだりはしない。バッグのなかで潰れただけだろう。これはきっと、言いがかりだ。

 でも、反論などできるはずもなく、私はひと呼吸おいた。こういうときの対応は決まっている。

「︙︙申し訳ございません。代わりになるかわかりませんが、お詫びにもうひとつ、お入れします」

 頭を下げ、チョコクロワッサンを取りにいくため体の向きを変える。しかしそのとき、チョコクロさんはハッと目覚めたかのように目を大きく見開いた。

「いいです! 大丈夫です!」

 彼女は怯えと驚きが混じったような目をして、必死に頭をぶるぶると横に振る。

「そう、ですか︙︙。本当に、申し訳ありませんでした」

 私は圧倒されつつもう一度頭を下げ、パンとおつりを手渡した。彼女は恥ずかしそうにうつむくと、足早に去っていった。

 いったい何だったんだ︙︙。

 首をかしげる間もなく、次のお客さんがレジにやってきた。

 夕方、勤務を終えた私は、改札に向かって歩いている。午後から降りだした雨は止みそうになく、ザーという雨音は、発車ベルと混ざり合って憂鬱な響きをなしている。

 今日はいつも以上にどっと疲れた。特に、チョコクロさんの態度には参った。ただただショックだ。何か嫌なことがあったのかもしれないけれど、八つ当たりされるこっちの身にもなってほしい。

 でも、帰り際の様子は気になるなあ︙︙。

 心のなかであれこれ言いながら、ブリキみたいに重たい足をどうにか動かしホームを歩く。目的もなく携帯をいじっていると、電車がやってきた。パッと見た感じ、混んでいない。やっと座れそうだ。

「ふう︙︙」

 疲労と安堵が体の底から湧き上がり、気体となって口から漏れた。ドア付近の座席に腰かけ、斜め右上の車内ビジョンの脱毛の広告をなんとなく眺め、視線を床に落とす。

 あれっ。

 そのとき、見覚えのある小花柄のスカートが目に入った。ドアを挟んで向こうの座席の端っこだ。

 もしかして︙︙。

 視線をじりりと上に動かす。思った通り、チョコクロさんだ。でも、いつもと顔がちがう。

 彼女はおそらく泣いている。少なくとも直前まで泣いていた顔だ。遠くからでもわかるほど目と鼻が赤く、腫れぼったい。唇をぎゅっと結んで、涙がこぼれないように堪えているようにみえる。

 何があったんだろう?

 ちらちらと彼女に目をやる。何もできないとわかっているのに見てしまう。彼女の背後の窓は、雨でしとしと濡れている。

 どうしよう。声をかけようか。いや、泣き顔を見られたくないだろう。そっとしておくのが無難だ。パン屋が声をかけたところで何も解決しない。不審に思われるだけかも。

「次は、目黒、目黒」

 自問自答していると車内アナウンスが鳴り、チョコクロさんが立ち上がった。次の駅で降りるらしい。私はうずうずしていた体を落ち着かせ、再び座席に深く腰かけた。

「あっ」

 彼女がいた座席に水色の細長いものを見つけたのは、諦めようとしたそのときだった。

 あれはたぶん折り畳み傘だ。気づいた瞬間、ぷしゅーっとドアが開いた。

 届けなきゃ。

 あの人はこれ以上、雨に濡れちゃいけない。

 急いで立ち上がり、傘に駆け寄る。手に取って電車から降りると、背中のすぐ後ろでドアが閉まった。ホームの上をきょろきょろ見回す。

「待って!」

 改札へ向かう階段の前にミントグリーンの背中を見つけ、大声で叫んだ。チョコクロさんと周囲の人がいっせいに振り返る。私は彼女のもとへ走った。

「これ、忘れ物です」

 息を切らしながら伝えると、彼女は驚いた顔で私をみる。

「あ︙︙! すみません。ありがとうございます。駅のパン屋の︙︙」

「はい。たまたま同じ電車に乗ってたんです。いつもありがとうございます。ご事情はわかりませんが︙︙元気、出してくださいね」

「えっ︙︙」

「あの、大丈夫ですか?」

「︙︙」

 彼女はじっと黙りこんだまま動かない。その瞳にはみるみる透明な液体が溜まり、今にもこぼれ落ちそうだ。

「︙︙今朝は、すみませんでした。ほんとうにごめんなさい」

 彼女は深く頭を下げた。声も手も、小刻みにふるえている。

「ちょっとだけ、座りませんか」

 私は彼女をベンチに誘った。ホームに涙がぽとりと落ちた。

「最近、なんかもう、ダメなんです。すべてが」

 静かに隣に座っていると、彼女は何度か深呼吸をしたのち、ぽつりぽつりと話し始めた。

「転職したばかりで会社では肩身が狭くて。『期待してたより使えなかった』っていう上司の嘆きも小耳に挟みました。心が不安定で恋愛もうまくいかないし︙︙」

 彼女は伏し目がちに続ける。

「チョコクロワッサンは、そんな私の唯一の癒しです。いつも午後までとっておいて、疲れてきたら食べるようにしてます。もうひと息がんばろうって、そう思えるから」

 こわばっていた彼女の頬が一瞬ゆるんだ。かと思ったら、また哀しげな表情に変わる。

「でも昨日は、生地がガラスの破片みたいに粉々に散らばってて、ぺちゃんこで。チョコはぐにゃりとはみ出ていているし、なんか、見た瞬間に一気にみじめな気持ちになったんです。これ、私じゃんって。たまたま潰れただけなのに、勝手に結びつけて馬鹿ですよね。嫌な気持ちを引きずったままプレゼンに臨んだらつまらない失敗までしちゃって、ほんとどうしようもないです」

「それで今朝︙︙」

 彼女は苦々しくうなずいた。

「急にこんなこと言うのも変ですけど、私、ずっとあなたに憧れてました。朝のやりとりも楽しみにしてました。いつも花が咲くような笑顔で、テキパキしてて、さわやかだから。でも、だからこそ羨ましかったんだと思います。たぶん、それもあって︙︙」

 いったいどんな言葉を返せばいいんだろう。驚きすぎて何も言えない。

「でもそんなの、人に当たる理由になりませんから。我に帰った瞬間に怖くなって、それで、逃げました。けどずっと頭から離れなくて︙︙。帰りにパン屋さんを目にしたとき、私何やってるんだろうって、急に涙が止まらなくなったんです。︙︙すみません、長々と」

 ひとつのチョコクロワッサンが、良くも悪くも彼女の人生にこんなに大きな影響を与えていたなんて。彼女の目から、私がそんな風に見えていたなんて。

 上手く言葉が出てこない私は、「大丈夫。大丈夫ですよ」とだけ返した。

 思い返せば、私も昔はそうだった。疲れたときにパン屋に行き、匂いをかぎ、さわやかな店員さんと笑顔を交わす。家に帰って袋を広げ、甘く香ばしい香りと食感に癒される。そんな日々を繰り返しているうちに、パン屋の虜になったのだ。

 私が売っているパンは、ただの小麦粉のかたまりなんかじゃない。私の仕事は、人にパンを渡すことだけじゃない。たったひとつのパンが、誰かの一日を変える可能性があるのだ。

「あの︙︙。突然ですが、お名前は?」

「えっ。富田です。富田ゆきのです」

「富田ゆきのさん、また絶対来てください。チョコクロ、山盛りにして待ってます」

 私が力を込めて言うと、富田さんはにっこり微笑み、うなずいた。

 

 それから一日経った今、私は職場の休憩所でタンブラーを片手にチョコクロワッサンを食べている。飲んでいる珈琲は、今朝、富田さんがくれたものだ。

「これ、よかったら。昨日のお礼です。チョコクロにすごく合うんですよ」

 レジで手渡された珈琲は、ほどよく酸味が効いたすっきりとした味わいで、たしかにチョコクロによく合う。富田さんも今日の午後、同じ珈琲と一緒にチョコクロを食べるのかも。そう思うと、胸がじんと温かくなる。

 お店のパンは食べ慣れていて、新しい発見があるわけではない。でも、今日はいつもより、おいしい気がする。

 もうひと息、がんばろう。

 エプロンを身につけ、パンの甘い匂いに包まれた世界に足を踏み出す。

 トゥルルルルル。

 今日もお店は大盛況だ。

奥村 真帆
1992年富山県生まれ。官庁とIT企業での勤務を経て、エッセイスト・ライター・編集者として活動。Webメディア「アイスム」にて食べものエッセイ連載中。ポプラ文庫『夜更けのおつまみ』にエッセイ掲載。
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