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登り切った先でひとときの休息を

登り切った先でひとときの休息を

これで最後だ、と思うのは、何度目だろうか。

「最後」の中身は違うのに、心の底で震えるようなこの気持ちはいつも同じだ。退職届、と打つだけなのに、キーボードの上を指が滑った。

見慣れた部屋の中、ベッドサイドのスノードームの奥で、雪だるまの丸い顔は他人事のようにそっぽを向いている。

気付け薬のつもりで買ってきた缶チューハイはとっくに空になっているのに、わたしは素面のままだった。

緊張なのか、怯えなのか。自分自身の決意の大きさに驚いているのかもしれない。

なにかを辞めるには勇気がいる。俊哉と別れたときもそうだった。

もう八年になる。

大学卒業と同時に物理的な距離が開いたわたしたちは、それがそのまま心の距離になった。

ケンカをした覚えもないし、嫌いになったわけでもない。ただ穏やかに、ああもう終わったことなのだ、と知った。

別れを告げたのはわたしからだった。

しばらく続いた近況報告もやがて途切れ、いまは名前を聞いてもなにも感じない。

懐かしいような、胸の奥がかすかにささやくような、くすぐったい気分になるだけだ。

大学生活のすべてを共に過ごした俊哉は、もう思い出になったのだった。

俊哉は山が好きだった。

登山もしたし、写真集もたくさん持っていた。

わたしは小学校の遠足で近所の丘に登ったのがせいぜいだったが、俊哉の話を聞きながら山の写真を眺める時間は心地よかった。

「あの山はね、条件がいいと、雲海が見えるんだ」

「うんかい?」

「雲を上から見たこと、ある?」

「飛行機に乗った時に」

「あれがね、目の前に広がるんだ。感動するよ。ついにここまで来たか、って気分になる」

わたしは俊哉の横顔を見る。雲から頭を出した山頂の写真を見つめる俊哉の目はきらきらと輝いて、きれいだ、と思った。

そういうところが好きだった。

PCの画面から目を離して、伸びをする。視界の端にスノードームが入り込んだ。季節外れの雪山で、雪だるまは赤い板に乗ってスノ―ボードを楽しんでいる。

山に登ろう、と不意に思った。あのとき俊哉が話していた山に。

登山靴を買わなくてはいけないだろう。いくらだろうか。

スマホで調べようと、わたしは鞄の中に手を入れる。

指先に、なにかが触れた。ふわふわした柔らかい紙に、なにかが包まれている。取り出すと、かすかに甘い香りがした。

上司の香水の香りだった。新入社員の頃からかわいがってくれた上司が、退職記念にくれたのだ。そういえば、送別会代わりのランチの帰りに受け取ったまま、中身を見ていなかった。薄い水色の包みを開いてみると珈琲の袋が出てきた。

香水の香りの下から、ふわりと珈琲の香りが漂う。俊哉の声がする。

「登山にはね、珈琲を持って行く人が多いんだ。山の上で淹れる珈琲は最高だよ」

この珈琲を持って行こう、と決めた。

なにが必要だろうか。

火と、湯を沸かす道具。マグカップは持っているけれど、せっかくだから新調しよう。

それから、ドリッパーも。アウトドア用のものがあるはずだ。

わくわくするような気持ちでスマホを取り出す。退職届、の続きはまた後にすることにした。

緑萌える五月とはいえ、山の上の空気は初夏と呼ぶには遠い。

肌着に重ねたポリエステルのシャツとサマーウールはやはり正解だった。

昼前に山に入り、もう三時間は経っただろうか。

真新しい登山靴は早くも土に汚れている。靴底が踏みしめる地面は固く、力強く足の裏を押し返してきた。

それなりに整備された道だった。

それでも山の中には変わりない。時折吹き付ける風は肌を削るように冷たい。わたしはのろのろと斜面を登っていく。よほど疲れて見えたのか、下山してきた老人たちのグループが、頑張って、と声をかけてくれた。

来なきゃよかった、と後悔する。登山雑誌を片手に揃えたピカピカの装備たちが、霧を吸ってしんなりとしぼんで見える。初心者であることが一目でわかるわたしを見て、案内所の男性は心配そうな顔をした。

「ここは案外、きついですよ。危険ではないですけど」

「大丈夫です。この山のことは、よく知ってます」

嘘ではなかったが、男性はあきらめたように頭を振った。

ここは俊哉の話していた山だった。初心者にも親切だよ、と言っていたのを覚えている。

それは本当だった。頂上に向かって緩やかに山肌を渡る道は危険のないよう整備されていたし、手すり代わりのロープも新しい。案内所にはトレッキングポールの貸出もあった。

でも俊哉は、初心者にも登りやすいよ、とは言わなかった。

山頂で宿泊し、日の出を見るつもりで一人用の簡易テントを担いだわたしは、その見通しの甘さにようやく気がついたのだった。

「ええい、なんとかなる」

つぶやいても独り言だ。返事はない。

山の中には、わたしのほかにはもう誰もいないような気がした。

いや、本当にそうなのかもしれない。今日は平日だ。普通の勤め人ならいまごろ、忙しく働いているころだ。人生の余暇を楽しむ人たちでさえ、そろそろ帰途につく時間だった。

わたしはもう、普通の人ではなくなったのだ。退職届はあっという間に受理されて、送別会やら役場の手続きやらに追われているうちに、わたしはきちんと日常から切り離されていた。

わたしは独りだった。

望んでそうなったのは確かだったが、それを喜んでいるのかどうかはわからない。

職場の労働条件に不満はなかった。上司も同僚もいい人たちばかりだった。わたしは恵まれていたと思う。友人はそう言ったし、大学受験にも無関心だった両親でさえ、考え直せ、と遠回しに言った。

それでも、そうしないわけにはいかなかった。なにかがわたしに進めといった。わたしはその声に背中を押されて、というか半ば突き飛ばされて、気がついたらこんな山の中まで来ていたのだった。

昔から無鉄砲で、こうと決めたら曲げない性格だった。それで失敗したことも、成功したこともある。周りはわたしを頑固者と呼んだけれど、たぶんわたしは、どこかに留まることができない性格なのだ。

一カ所に留まれない。同じ人との付き合いも続かない。一番長く続いた恋人は俊哉だった。

ああ、また俊哉だ。

わたしは首を振る。

もう何年も思い出しもしなかったのに、このところ、わたしの心は俊哉のことでいっぱいだ。

未練がある、というのも違う。連絡を取りたいとは思わなかった。

ただ、俊哉と過ごした時間がわたしは好きだった。

きっとわたしはあの時間のことを考えているのだ。穏やかで、ゆっくりと漂うように流れていた、あの時間のことを。

珈琲の香りに似ている、と思う。俊哉が珈琲好きだったからかもしれない。

リュックの底に手を伸ばす。そこに、大切にしまった珈琲がある。

どんな味がするのだろうか。頂上で飲む珈琲は。

袋に触れた時の香りがまだ残っているような気がして、そっと指の匂いを嗅ぐ。

汗と、土の匂いがした。

それから三時間は歩いただろうか。やっとの思いで頂上にたどり着いて、荷物を放り出す。

あたりはすっかり夕暮れだ。見えなくなる前にテントの準備をしなくては。

管理の手が行き届いた山頂はキャンプ場になっていて、木々の間に適度な間隔が開いている。奥には湧き水もあるようだ。シーズンになればにぎわうのだろうが、今日はわたししかいなかった。

普通の人は、と考えそうになった。わたしはもう、そこにはいないのに。満員の電車に揺られることも、人の声が飛び交うオフィスの席に座ることもない。

瞬きした拍子に、俊哉の横顔が瞼の裏をかすめた。わたしはもう一度頭を振る。明日の朝は早い。太陽より早く目覚めなければならないのだ。軽食のあとはすぐ寝てしまおう。目の前の作業のことだけを考えながら、わたしはテントを張り、就寝に向けて動き出した。

目覚ましの音で目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるのかわからずに慌てる。飛び起きて、頭をテントの天井にぶつけた。

それでようやく、ここが山の上だということを思い出した。

思っていたより寒い。ブランケットにくるまる。暖かいものが欲しかった。

湯を沸かそう、と思って、リュックの底の珈琲を思い出した。

リュックを片手にテントから這い出す。山の空気が肺に染みる。植物のにおいがした。それから土と、澄んだ水の匂い。大きく息を吸うと、頭の芯から目が覚めた。

ガスコンロに小さなケトルを乗せ、湯を沸かす。その間にカップの上にフィルターをセットする。珈琲の袋を顔の前に持ってくると、独特の香ばしい香りが鼻に届いた。

フィルターに珈琲を出し、ゆっくりと湯を注ぐ。

“の”の字を書くように、と声がした。聞きなれた声だ。

わたしはうなずく。

記憶の中で、俊哉が笑ったような気がした。

立ち上る珈琲の香りには、柑橘類のような爽やかさがあった。暖かな期待に胸が満ちる。抽出された珈琲の雫が、ぽたりぽたりとカップに落ちる。

静かな時間だった。ゆっくりと流れていくのが目に見えるような気がする。そうしてできあがった珈琲は濃い琥珀色で、時代を刻んだ木の表面のように艶々と輝いていた。

口に含む。途端に、体中を珈琲の深い香りが包んだ。苦みはほとんど感じなかった。代わりに舌の上には穏やかな酸味と甘みが残る。

珈琲を甘いと思ったのははじめてだ。体が疲れているからだろうか。目の覚めるような苦さを覚悟していた心は一気にほぐれた。

ふう、と息を吐く。長く落ちていく吐息の先が、柔らかく山の空気に溶けていく。同時に、体の奥からなにかが抜けていくような気がした。

ふいにあたりが明るくなっていることに気がついた。夜が明け始めたのだ。

珈琲のカップを持ったまま、わたしは立ち上がる。

空の向こうに、太陽があった。その光の下に見える景色に目を凝らす。日の光に照らし出される、眠ったままの街を探して。

けれどいつまでたっても、それは見えなかった。うっすらと煙るような白色がどこまでも続いている。太陽はその上に、はっきりと姿を出したというのに。

雲の海だ、と思った。

目の前に広がるのはなにもない、ふわふわと揺れる白い水面だ。雲海だった。

わたしは立ち尽くす。ただただ美しい景色だった。太陽はだいだい色の輝きを真っ白なキャンバスに流して、静かに空の上に起きあがる。

「ついに」

つぶやいた声は俊哉の声に重なって、そしてそれを、穏やかに塗り替えた。

「ついに、ここまで」

ここまで来た。来てしまった。来ることができた。

それは、わたしの声だ。わたしだけの声だ。俊哉はもういない。わたしは自分の足で、ここに立ったのだ。

そうしてわたしは、ここに来た理由を知った。わたしも、ひとつの山を登り切ったのだ。

目の前には白紙の未来が広がっている。これからわたしは、どんな景色を見るのだろうか。

手の中の珈琲を、もう一口飲む。暖かい液体と爽やかな香りがわたしを満たしていく。

「ついにここまで」

もう一度つぶやく。わたしは笑っていた。誰のものでもない、わたしだけの未来に。遠くで、俊哉が手を振っているような気がする。「もう大丈夫」と声がする。

それは、別れの言葉だった。そして、始まりの言葉だ。

もうすぐわたしは山を降りるだろう。そしてこれからのことを考える。

どこにでも行けるけれど、その責任は自分で取らなくてはならない。

「なんとかなるよ」

つぶやいた言葉は真新しく、生まれたばかりの今日に混じって、そして消えた。

春緒
Twitterでは読んだ本の感想や、ときどき140文字のSSもつぶやいています。好きなものは本と珈琲。いつものカフェのいつもの席でいつもの珈琲を飲みたい派。でも、たまには冒険もしたい。着物が好きで、最近、茶道を始めました。お茶菓子の羊羹を10cmくらいの厚みで切ったら、先生に「こんなに食べないでしょ」と笑われました。・・・食べますよ?
ものがたり珈琲
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