タップで読む

懐かしさを手紙にのせて

懐かしさを手紙にのせて

 初夏の昼下がり、珈琲の香りが鼻先を撫でる。今日、息子が二十歳の誕生日を迎えた。子供の成長は本当に早い。二十年間、大切に積み上げた思い出も全て、この前の事の様に感じる。カップを見つめ、徐に珈琲の表面を覗き込むと、あの日の光景が脳裏に浮かんだ。あの日も確か、香ばしい珈琲の匂いが部屋中に漂っていた。

 息子の五歳の誕生日をお祝いする為、僕と妻の汀、そして息子の拓実の三人で僕の実家を訪れていた。珈琲屋を営んでいる事もあり人当たりの良い僕の母に、拓実は物心つくとすぐ懐くようになり、普段から在宅ワークで家にいて、コミュニケーション能力の高い汀は、早々と母親の地位を確立していた。

そんな中、僕だけが一握りの違和感を持ちながら拓実との親子の時間を過ごしていた。

 拓実が物心つく前までは楽観視していた父親と息子の関係性だが、物心がついて人間としての感情や情緒が芽生えるにつれて、僕は息子とのコミュニケーションが上手く取れなくなっていった。長い時間を過ごす事で拓実の好きな物や嫌いな物、興味を持つ物、出来る様になった物などを当然の様に知っている汀と、所々で会話に躓き、感情と言葉の受け渡しが上手くいかない僕。元々、口数が多い方ではなかった僕は、自然と拓実から距離を置く様になり、拓実に関して深く入り込めない様になっていった。

そして五歳の誕生日を迎えた拓実は、今日も当然の様に母親と散歩に出掛けている。一般的に父親は子供との時間がなかなか取れない為、子供との良好な関係性を保つのに苦労するという話を耳にするが、僕と拓実の関係性に関してはそれ以前に、僕に問題があるのではないかという感情が日増しに強まった。「行ってきます」と元気に呼び掛ける声も、毎日一緒に過ごしている僕よりも、あの子にとって明るくて優しい祖母である僕の母親に向けて放たれた言葉だという気がしてならない。そんな、父親としての自信の無さがこの状況に拍車をかけ、お互いに話しかける機会を失っていった。

 自室に篭り、子供の頃お世話になった机に頬を当てた。机に身を預けて、心の中に居座る不安がゆっくりと溶けていく。そして、自分が子供の頃の事を思い出していた。懐かしい記憶が頭に浮かんで、ふと引き出しを開けると、父の筆跡で書かれた手紙のような物が仕舞われていた。宛名もなく、独り言みたいにツラツラと書き連なっていた。ぼやけた視界で手紙の中身を見ていると、ドアを優しくノックする音が部屋に響いた。

「入って良い〜?」

それは、聞き慣れた母の声だった。

「うん、いいよ」

僕は声のする方を向いて言葉を返した。

「久しぶりの実家はどう?」

「うん、ゆっくり出来ているよ」

僕は当たり障りのない答えを持ち出す。「そっか」と言った母は、僕の身長を記した壁の傷をゆっくりとなぞりながらタイミングを計る様に沈黙した。そしてまた、こちらを向くと僕に問いかけてきた。

「拓実とちゃんと話せてる?」

母は変わらずに優しい表情で僕を見つめた。

「母さんには、僕たちが上手く話せていない様に見える?」

僕は目を逸らしながら聞き返す。

「他の人には分からないかもしれないけど、私には分かるわ。もちろん、汀さんも気づいていると思うけど」

僕はそれを聞くと、目を逸らしたまま頷いた。

「きっと話自体は出来ていると思うんだ。でも、当たり障りのないというか、拓実はどんな返事を求めているのかなとか、どんな反応をしたら好いてもらえるかなとか、そんな事を考えながら会話をしているうちに他所行きの感情みたいになっちゃってさ。段々、本当に思っている事も言えなくなってきて」

僕は白状する様に、言葉を絞り出す。母は変わらない優しい表情でそれを聞いていた。そして、一通り僕が話し終わった頃、母はゆっくりと口を開いた。

「あなたもお父さんに似たんだね」

一瞬、僕は何の事か分からなくて首を傾げると、母は少し微笑んでこう答えた。

「お父さんもね、あなたがまだ小さい頃はあなたと上手く話せなかったのよ。まぁ、今も口下手なところは変わらないんだけどね。昔は恥ずかしいのか息子っていうのを意識しちゃうのか分からないけど、あなたを目の前にしたらなかなか言葉が出てこないみたいで、その日あった出来事や話したい事を便箋に書いてみたり、予行練習みたいに口ずさんでみたり。本人は結構苦労してたみたいよ」

初めて聞いた話だった。子供の頃はあまり感情を表に出さない静かな父親だと思っていたが、僕の知らない所で父なりに色んな思いを持っていたのだ。僕はゆっくりと引き出しを開ける。そして、父が僕宛てに書いた手紙を手に取り、目を通した。

「運動会、頑張ったな。かっこよかったぞ」

「クラス替えはどうだった。友達はたくさん出来たか」

「卒業おめでとう」

行き場を失った言葉たちがそこには並んでいて、子供の頃の思い出が一杯に溢れ、僕の瞳を煌めかせた。そして、懐かしさと温もりが混ざり合った空間に母の声が優しく響いた。

「あなたの誕生日だって、直接おめでとうってなかなか素直に言えなくてね。言いたい事は手紙にして渡す!とか言って、結局渡さずに終わったりとか」

母は、思い出を懐かしむ様に言葉を並べた。そして遠くを見ていた視線をこちらに合わせて、再び口を開いた。

「大切だからこそ、言葉が出ない時もある」

母がそう言うと、空間にはひとときの静寂が訪れた。その一瞬は、体感的には長い間、時が止まっている様に思えた。真剣な表情でそう述べた母は、次の瞬間には「ってお父さんに言ったら、恥ずかしがっちゃって結局、手紙を引き出しに仕舞っちゃったんだよね」と戯けて笑った。それに釣られて、僕の心からも笑みがこぼれた。

「母さん、便箋ってあったかな」

 母から話を聞いた後、僕は母に便箋と子供の頃に使っていた鉛筆を用意してもらった。そして、拓実と歩んできた五年間の思い出を手繰り寄せて、夢中で言葉に書き出した。書いては消して、消え切れずに残った文字すら綺麗で、気づかなくても伝わってしまえばいいと思った。そして筆圧だけが強く残った手紙を見つめた。

「伝えたい事しかないのに、伝え方が稚拙だな」

手紙に向かって呟く。そして、ドアをノックする音が響いて部屋の入り口から香ばしい匂いが漂ってきた。

「珈琲でも飲んで」

母の優しい声が聞こえて、珈琲を口に運んだ。子供の頃から変わらない味だ。懐かしさを覚えて、思い出の中で手探りをする。そして、いつか母に言われた言葉を思い出した。柔らかくて曖昧な記憶の中で鮮明に響く、温かい言葉だった。

「生まれてきてくれてありがとう」

僕はそう口ずさみ、そのままの言葉を手紙に書き出す。そして、部屋から静かに去っていく母に向けてこう言った。

「母さん、ありがとう。色々と」

振り返った母は、僕に向かって優しく微笑んだ。

「珈琲のおかげかな」

そう言って母は部屋を後にした。

 

 散歩から戻った拓実と汀を、僕はリビングで出迎えた。汀は少し驚いた表情を見せて、拓実は僕に「ただいま」と言った。僕は「おかえり」と言って、拓実をこちらに呼び寄せた。

「拓実、お父さんから誕生日プレゼントだよ」

そう言って僕は書きたての手紙を差し出した。

拓実は不思議そうに手紙を見つめて、僕に問いかける。

「お父さん、プレゼントはもうもらったよ?」

「そうだな。でも、もう一つ準備してたんだ」

僕はそう言って、拓実をリビングのテーブル椅子に座らせた。拓実が手紙を眺めているうちに、僕は台所へと移動して、用意していた珈琲をカップに注いだ。そして、砂糖とミルクを二つずつ、珈琲へと入れる。手紙に書かれた甘すぎるセリフを誤魔化す様に、苦い思い出を包み込む様に、ゆっくりと、珈琲に溶かしていく。そして、もらった手紙を物珍しそうに眺める拓実に、珈琲を差し出した。

「お誕生日おめでとう」

僕がそう言うと、拓実は不思議な顔をしながら大きく頷いた。そして手紙に書かれた文字を一生懸命、読み解こうとしていた。

「︙まれて︙きて︙くれて︙ありがとう︙?」

上目遣いで僕に問いかける。僕は微笑んで、何度も頷いた。

「そうだよ。拓実が大人になったら、きっと分かるよ」

「そっか。お父さん、これ飲んでいい?」

拓実は珈琲を指差しながらそう言った。僕が頷くと、まだ小さな手のひらでカップを包み込む様に持ち上げ、口いっぱいに珈琲を含んだ。顔を少し顰めながらも目の前に広がった手紙を見つめながら、物珍しそうに飲んでいた。

「にが〜」

含んでいた珈琲を飲み込んだ拓実が僕に向かってそう言った。

「これも、拓実が大人になったらきっと分かる」

僕は拓実の頭を撫でながらそう言った。すると拓実がこちらを向いてこう言った。

「でも、今日のお父さん、なんか好き」

僕はありったけの笑顔でこう答えた。

「お父さんも、大好きだよ」

僕は今まで、少し勘違いをしていたみたいだ。父親は独りでに父親になるんじゃなくて、子供が僕たちを父親にしてくれる。やっと少しだけ父親らしくなれたみたいだ。珈琲と幸せに包まれた部屋に、家族の笑い声が響いた。

 

 あの日のことが、昨日の事の様に感じられる。今こうやって、リビングで一人、珈琲を飲みながら思い出す。すると扉が開いて、そこには二十歳の誕生日を迎えた拓実がいた。そして、右手には見覚えのある手紙があった。

「俺も飲んでいいかな」

 

拓実は僕のカップを見ながらそう言った。

「淹れるから、座って待ってな」

僕はそう言って、台所へ向かった。

 拓実の珈琲を淹れてテーブルへ向かうと、拓実の手にはあの日渡した手紙が握られていた。

「まだ持っていたんだな」

「うん、なんか、ね」

少しだけよそよそしい態度の拓実に、僕は「どうした?」と問いかける。すると拓実が意を決した様にこちらを見つめ、恥ずかしがりながら僕に手紙を手渡した。

「あの日の返事」

手紙には「育ててくれてありがとう」と書かれていた。僕は溢れ出しそうな感情を抑えながら、誤魔化すようにこう言った。

「拓実もお父さんに似ちゃったな」

僕がそう言うと、拓実は微笑みながら珈琲を口に運んだ。そして僕も、それに合わせて珈琲を口に運んだ。顔を顰める事はもうなくて、二人で笑い合いながら珈琲を啜る幸せが、そこにあった。

高嶺理想
詩書きと写真家。一九九八年、長崎生まれ。長崎大学在学時にカメラと小説執筆を始める。卒業後は地元企業に就職。現在、小説サイト「monogatary.com」にて小説の執筆を行う。また「写真を詠む」をコンセプトに小説と写真をリンクさせた作品をTwitter、Instagram等のSNSで掲載中。四月には写真と詩を融合させた1st 詩写集「ストーリーライター」のプレゼント企画を行った。
コーヒーについて
ふと懐かしい気持ちと共に思い出される、大切な人との大切な時間。「あの人元気かな?」「最近どうしてるかな?」SNSで名前を検索しようとする手を、そっとしまう。今日はその想いを手紙にのせよう。遠い過去を懐かしみながら筆を取る、そんなあなたに。古き良き思い出をセピア色に表現し、黒糖やナッティ系の香ばしい風味を中深煎りに。酸味が少なくどっしりとした味わいのブラジル豆をメインに、昔ながらの純喫茶にも出てくるコーヒーらしい濃い味に仕上げました。あなたの大切に思う気持ちが、相手の心に届きますように。
ものがたり珈琲
Instagram Twitter



左矢印