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夏の音色を楽しみながら

夏の音色を楽しみながら

 ちり、ちりん。

 ぎこちない風鈴の音が、慌ただしい朝に響いた。見ると、ミウが踏み台に乗って窓辺に風鈴を吊るしている。

「外に行くときはカギかけるのよ」

 小学校三年生にもなり、はじめての留守番でもないのに、つい小言がこぼれてしまう。当の本人は聞いているのかいないのか、風鈴を見つめて満足気な表情だ。

 赤、オレンジ、黄色と、グラデーションの鱗で絵付けされた金魚。授業参観で他の子が次々と作品を完成させるなか、一人背中を丸めていた娘の姿を思い出す。

 どうしてだろう。周りが器用に泳ぎ回っているのに、娘だけが違う流れに取り残されているみたいだ。

「ねえママ、あの棚のなかのもの使ってもいい?」

 ミウがキッチンの吊り棚を指さすのを横目に、テーブルの上の財布と水筒、それに日焼け止めをトートバックに突っ込み「何に?」と返す。

「えっと、夏休みの自由研究」

 玄関で靴を履く私の背中にミウの声が届く。振り向きざま、娘の横顔が驚くほど自分に似ていて言葉に詰まる。頭の中で駐輪場まで降りる時間を計算しながら「割らないでね」と、精一杯のやさしさを込めて言った。

 外の息苦しいまでの熱気に、すぐさま汗がにじみ出た。職場のスーパーまでは自転車で十五分。徒歩圏内に別店舗があるおかげでマンションの住人とはめったに顔を合わせずに済む。けれどもぎらぎらと照り付ける太陽の下では、さすがに距離がうらめしい。

 敷地を出てすぐ、赤信号につかまる。青色の車が光を反射し、マンションの駐車場から速度を上げてやってくるのが見える。こんな時間に珍しい。そう思った瞬間、ハンドルを握る海の色をした指先が視界を横切った。

 案の定、運転席にはサオリがいた。

 アユミちゃんって、すっごい上手だね

 記憶の彼方から、よく通る声が耳の奥でこだまする。もう何年も挨拶すらしてないのに。朝の八時、アスファルトに落ちる私の影が、濃い。

「アユミさん、今日はコロタンですねっ」

 コロッケ担当だからコロタン。そう言いだしたのは二週間前に入ってきたマキちゃんだった。白帽子とマスクから覗く目元は、今日もラメとマスカラの主張が強い。

「わお、大量だあ」

 マルシェ彩光の惣菜は人気がある。地元の食材にこだわった揚げ物やお弁当は味がいいと評判だ。飛騨牛のざくざくコロッケや大エビの海鮮かき揚げ丼は出したその場から飛ぶように売れる。安定経営だから待遇も良く、半年前にパートで働けると決まったときは視界が開けたような気持ちになった。

「アユミさん、分量ってこれ大丈夫ですか?」

 不安げに差し出されたコロッケのタネを量りに乗せる。メモリを見つめるマキちゃんの顔がぱっと明るくなった。

「あたしも手早く作れるようになりたいなあ」

 マキちゃんが才能の違いですかねえと、ため息をつく。私は均一な大きさでコロッケのタネを量産しながら、すぐ慣れるよと返した。

 実際、マキちゃんは飲み込みが早い。私が量りを使わずによくなったのは、入って二か月も過ぎたころだった。最初の頃はシフトの度に、「料理が好き」と「仕事でする料理」との圧倒的な差に打ちのめされていたのだ。

 才能なんて。調理場に似つかわしくない言葉はスライサーでざくざく刻まれていく。

 マスクを外すと頬に線がついていた。ロッカーの鏡に映る目尻には、シワのようなものが浮かんでいる。サオリと出会った頃は、寝不足でも肌にハリがあった。もう八年も前になるのかと、月日の流れを実感する。

 育児サークルで先に声をかけてくれたのは、サオリだった。はじめての子、二カ月差の月齢、同じマンション。すぐに意気投合した。サオリはママたちの輪のなかで目を惹いた。高級ブランドではないけれど仕立ての良いものを身に着けて、動きやすい恰好なのに流行は押さえてる。彼女が独身時代から書いているというブログを教えてもらったときは、何かに認められたようで嬉しかった。

 子どもを連れて近所の公園でピクニックするのが、私たちの定番の息抜きだった。木陰にシートをひき、お弁当を広げる。

「アユミちゃんって料理、すっごい上手だねえ」

「そんなことないよ」

 私はサオリの言葉に即座に首を振った。料理上手とは、もっと手際が良いしもっと上手いのだ。そんなことを私が口走ると、サオリは笑いながら唐揚げをつまんだ。続けて伸びてくる小さな手たち。

「いつぐらいから一緒に遊びはじめるかなあ」

「三歳くらいらしいよ」

「その頃は幼稚園か。運動会でお弁当食べられるねえ」

 それから一年もしないでサオリは正社員の職を得た。当然サオリの子は保育園へ。今となっては、なんて心許ない約束だったのだろうと、続きを楽しみにするように未来を待っていた自分を笑いたくなる。

「おつかれさまでーす」

 香ばしいタレの匂いが漂ってくる。振り返ると、マキちゃんが海鮮かき揚げ丼を頬張っていた。お先にと手を振って休憩室を出る。帰ったらミウがお腹を空かしているだろうから、そうめんを茹でてナスの揚げ浸しを出そう。

 お弁当を積んだ品出しのカートラックとすれ違う。社割だから半額。ママ友のあいだでも評判。なのに、自分では手に取る気になれない。

 通用口から外に出ると、厳しさを増した日差しが私を焦がす。

 夕食のあと、こめかみを押さえてベッドに寝転んだ。暑さに負けたのか頭が重い。

 ミウが心配そうに麦茶を持ってきてくれる。かと思えば「ママ、量りってどこ?」とドアから顔を出してはキッチンで何やら物音を立てていた。

 枕元でスマホが振動する。夫から遅くなるとのメールを読み流し、SNSのアイコンをタップした。検索バーに暗記しているユーザー名を入力する。

 どうやら今朝は、旦那さんと子どもを駅に送りにいくところだったらしい。

 サオリのアカウントには「ひとり夏休みだ!」と添えられた青空の写真がアップされていた。「#一週間の自由」「#夫ありがとう」のタグがついている。フォローはしていない。コメントもしない。だから私が見ているなんて、むこうは知らない。

 新色のマニュキュア、子どものサッカーに付き添うコーデ、会議後のカフェラテ。ママ友の噂で、サオリはWEBマーケティングの会社で働いていると聞いた。親指の機械的な動きに合わせて流れていくサオリの世界はまぶしい。光りすぎていて、私の胸にシミを落とす。夕立の前触れのような黒い雲が広がっていく。

 私もブログを書いていた。サオリを追いかけるように始めた、料理ブログだった。しばらくしてコメントがついた。一つ、また一つ。本名も顔も知らない人からの言葉を、いつしか心待ちするようになっていた。

 そんなある日、出版社から「書籍化のお誘い」という件名のメールが届いた。そこには、ブログに載せた日々のことや料理のレシピをまとめた本を出版しませんかと、熱く丁寧につづられていた。夢かもしれないと思った。そこが頂点だった。その後、ブログに攻撃的なコメントがつくようになった。一つ、また一つと増えていく。語尾の「笑」だけで、人はあんなにも悪意を示せるものなのか。書籍化の誘いは、当時ブログランキングの上位にいた複数名に送られていたらしく、コメントはその中の誰かからの嫌がらせだったと後になって知った。

 気づいたときには大事に育てた花畑は踏み荒らされ、画面の向こうには嫉妬と競争の嵐が吹き荒れていた。公開ボタンを押せない。私だけが取り残されていた。

 もし、続けていれば私だって。スマホを置いて目をつむる。暑さだけではない、何かに負けている。自分で選んだはずなのに。なのに、後悔の影がまとわりついて、まだ消えてくれない。

 結局、昨晩は寝落ちしてしまった。化粧をしなくても、白帽子とマスクで顔面を隠せるのはありがたい。

 フライヤーから立ち昇る灼熱を全身で受けつつ、コロッケを次々と油の海に放り込む。揚げ場の正面にある大きな窓ガラス越しに、売り場に出したコロッケがどんどんなくなっていくのが見える。

 ふと、一人の女性が目に留まった。惣菜に手を伸ばす指先の、海の色に見覚えがある。

 サオリだ。

 心臓が飛び跳ねる。

「アユミさん、コロッケもうよさそうです」

 マキちゃんの声に、あわてて網をつかんだ。

「顔、熱そう。あたし次やります」

 代わりに品出しお願いしていいですかと、示された先には海鮮かき揚げ丼が積まれている。サオリは、たまたま買い物に来ただけだ。そう言い聞かせながら、いつもより重いカートラックを押す。

『熱々できたて!』と書かれたポップの横に、海鮮かき揚げ丼を並べていく。早く調理場に戻ろう。あえて目の前に集中していると、日に焼けていない白い腕が横から伸びてきた。

「わ、まだあったかい」

 よく通る声が耳に届く。思わず、顔を上げた。

 ゆったりした白いTシャツに、柔らかい花柄の生地のワイドパンツ。惣菜を手に取るその姿は、部屋着の延長で買い物に来たどこにでもいる同年代の女性だった。

「あ、これ好きなんです」

 独り言を恥じるように笑うサオリの目元に、小さなシワが浮かんで、それを見た瞬間、胸の中でピントがカチリと合う音がした。

 私は、なにを見ていたんだろう。

 昔、サオリがブログに書いていた。夜泣きに旦那さんが協力してくれないこと。一歳児を抱えた転職活動が思うようにいかないこと。最初から輝くすべてを持っていたわけじゃない。サオリにはサオリの、涙とか葛藤とか、文章や写真では表せない月日が流れている。

「おいしいですよね」

 サオリは海鮮かき揚げ丼を手にとり、会釈をして去っていく。買い物カゴには惣菜が何品かと、それにスナック菓子と発泡酒が入っていた。ああいうものも、食べるんだ。

 手のひらの小さな窓から見える景色が世界のすべてなんかじゃない。私が眺めていたのは、ほんの一部。それを内側で歪に膨らませ、見た気になっていた。

 背筋を伸ばして目線を上げる。売り場には、朝イチで調理した惣菜たちが見栄え良く並んでいる。

 いつの間にか焦げ付くような光が胸の奥から消え、代わりに、香ばしい匂いに頬をゆるめる女の人の笑顔が浮かんだ。

「おつかれさまでーす」

 マキちゃんは、今日も元気よく手を合わせる。

「ねえ、それまだあった?」

 尋ねると、口をもぐもぐと動かしながらマキちゃんは左手でピースサインをつくった。午後もがんばってねと返し、いつもの通用口ではなく、軽い足取りで売り場へと向かった。

「ミウ、ただいまー」

 リビングの扉を勢いよく開けると、クーラーの冷気が心地よく体を包む。マルシェ彩光の袋から海鮮かき揚げ丼を二つ取り出してテーブルに並べる。

「ママ、おかえりなさい。ちょっとまってて」

 ミウは私の脇をすり抜けると、冷蔵庫から縦長のボトルを取り出した。なんだろう。私の問いかけをよそに、ミウはグラスに氷を入れ、ボトルから黒い液体をなみなみと注ぐ。

「はい、どうぞ」

 得意げに笑うミウの顔を見ながら、ひとくち飲む。舌の上をすっきりした甘さが流れ、コーヒーの深い香りが鼻に抜けた。

「あらっ、おいしい。どうしたのこれ」

 コールドブリューじゃない。よく見ると、ミウが持っているボトルは水出しコーヒーのものだ。毎年夏になると出していたが、パートの慌ただしさから忘れていた。

「夏休みの自由研究なの」

 お小遣いで豆も買って挽いたんだよと、ミウが胸を張る。キッチンには量りとコーヒーミルが置かれている。よくちゃんと作れたわねと感心しながら言うと、ミウは「調べたから」とタブレットを指さした。

「ママ、こっちの豆のほうが好きとかしょっちゅう飲んでたでしょ」

 たしかに、一晩かけて抽出した冷たいコーヒーで喉を潤すのが真夏の楽しみだった。誰に急かされるわけでもなく、好みの味に出会えると、おいしさも増した。

「だから、いろいろ試してみようかなって」

 隣に座ったミウがノートを広げる。紙には、コーヒーの作り方が書かれていた。粉の粗さ、分量、抽出の時間︙︙それから、味、香り、豆の原産国情報なんて項目もある。隣のページには水出しコーヒーのボトルの絵が描かれている。不器用に歪みながら、細部まで丁寧に引かれた線が、愛おしいほどに光った。

「おいしい、すごく上手」

 爽やかな夏の味を噛みしめるようにつぶやく。ゆっくりでもいい、ゆっくりだからいい。緑の木陰で涼むように、体がひたひたと満たされていく。

 カランとグラスの氷が心地よい音を立てた。

 窓辺では青い空を背景に、風鈴の金魚が気持ちよさそうに泳いでいる。

サトウカエデ
ライター。2019年、短編小説「8分間のサマー・トレイン」にてキリン×noteコンテスト「#あの夏に乾杯」の審査委員賞を受賞。そのほか、『僕が旅人になった日』(ライツ社)にエッセイ掲載。ニュージーランド在住。
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