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〝おつかれさま〟を自分に宛てて

〝おつかれさま〟を自分に宛てて

「急いでるんですけど」

席につくなり不機嫌そうにそう言った客は、こちらを見ることすらなくスマートフォンを操作している。

混雑する休日の昼下がりの携帯電話ショップ。店内は、番号札を手に落ち着かない様子で自分の順番を待つ客で溢れ返っている。

イライラするのも無理はないと分かっているけれど、急いでいるなら混雑する時間帯は避けてくれればいいのに、と胸の内で小さく毒づく。

「お待たせしてしまい、大変申し訳ございません」

わざとしおらしく、心から申し訳ないという誠意が伝わる声色で謝罪する。

「本日は、どのようなご用件で︙︙」

「プラン変更」

こちらの言葉を遮るように、苛ついた口調でそう言われ、私の心はどんどん重くなっていく。

ああ、また、厄介なお客様、か。

溜息をつきたいけれど、そんなこと〝お客様〟の前でしようものなら、クレームものだ。

表情や態度には本心を表してはならない。常に笑顔で、謙虚に、誠実に対応しなければならない。それが接客業の基本だ。

さっきのお客さんはお子さんの初めてのスマホの相談で、こちらまで自然に笑顔になってしまうようなほっこりした穏やかな時間だったのに。

毎日、不特定多数のお客さんと接していると、自分の感情が目まぐるしく変動する。この仕事に就くまでは、自分の中にこんなに激しい感情があったなんて知らなかった。社会人になるまで出会ったことのないタイプの人とも接する中で、人と関わることの難しさを痛感した。

イライラすることもあれば、自分の力不足に落ち込むこともあった。感謝の言葉に心癒されることもあったし、子連れのお客さんとの時間を楽しむこともあった。

陽と陰、ポジティブとネガティブ、喜怒哀楽の感情が、一日に何度も何度も入れ替わる。これが接客業なのか、と思い知らされた。

急いでいると言い、無愛想にプラン変更を希望した客は、始終不機嫌な様子だった。わざとらしい溜息が出る度に、嘆息したいのはこっちだよ、と胸中で毒を吐く。小さな舌打ちが聞こえる度に、心臓が嫌な揺れ方をした。

どうにかプラン変更の案内が終わり「ありがとうございました」と頭を下げたが、相手からは何の言葉も返ってこなかった。

ちょうど休憩に入るタイミングだったので、バックヤードで溜めに溜めた長い長い溜息を吐き出す。そのままうなだれて「ああ~」という呻き声も漏らしていると、背後に人の気配を感じた。

「おつかれさん」

振り返ると、湯気の立ったマグカップを持った先輩が立っていた。

「今淹れたんだけど、飲む?」

コーヒーの香ばしい匂いが漂ってきて、思わず「ありがとうございます、いただきます」と答えると、先輩はテーブルにコトンとマグカップを置いた。

「私も飲もっと」

そう言うと、先輩は私に背を向けて二杯目のコーヒーを淹れ始めた。

「大丈夫?」

後ろを向いたまま、先輩が尋ねる。

「さっき、大変だったでしょ」

先輩は、いつもよく気付く。自分の担当ではないお客さんもよく見ているし、トラブルやクレームの対応が上手で、社員からもアルバイトからも頼られている。

「ときどき、ああいう方とぶつかっちゃうのは仕方ないですけど、ちょっとしんどかったですね」

沈んだ声でそう答える。

「気にしないのが一番だけど、振り回されるよね。ま、コーヒーでも飲んで気持ちリセットしな」

先輩が淹れてくれたコーヒーを口に運ぶと、コクのある中にもほっとするような優しさが感じられた。

「おいしい。これ、どこのコーヒーですか?」

「うちの近所にコーヒー豆屋さんがあってね、そこで仕入れてるの。毎朝豆を挽いて、粉にして持ってきてるんだ」

「えっ!? 豆から挽いてるんですか? そりゃおいしいわ」

「接客業のストレスを緩和するための工夫のひとつ。こだわりのおいしいコーヒーを飲んで気持ちをほぐすの」

先輩はいつも穏やかで、優しくて、面倒な客にもニコニコと笑顔で対応している上に裏で怒ったり愚痴を言ったりする姿を見たことがなかった。根っからそういう素晴らしい人なのかと思っていたが、先輩も自分と同じようにストレスを感じているらしい。

「先輩もストレス感じるんですね」

「そりゃ、もちろん。私にはストレスも悩みも無いと思った? そんなに能天気な人間じゃないよ」

先輩は笑いながら自分のために淹れたコーヒーを持って隣に腰かけた。

「だって、先輩、いつも穏やかで全然怒ったり愚痴言ったりしないじゃないですか。聖人みたいな人だなって思ってたんですけど」

「そんなことないよ。ただ、この仕事を始めてからは意識的にストレスを溜め込まないようにしてるから、それでかな」

「さっき、コーヒーはストレス緩和の方法のひとつって言ってましたよね? 他にも何かやってるんですか?」

「日記書いてる」

先輩のストレス緩和法を知りたくて聞いてみたものの、返ってきた答えを聞いて私は軽く失望した。そうだ、先輩はまめな人だった。日記をつけてその日の出来事を整理しているのだろうけれど、自分には真似できない。子どもの頃から三日坊主で、夏休みの宿題の日記すら続かなかった。

「日記は真似できないなぁ」

「いや、日記っていうか、なんだろ。自分との交換日記っていうか、手紙みたいな感じかな」

「普通の日記と違うんですか?」

「私の場合は、何か誰かに聞いてほしいこととか、愚痴りたいこととか、すごく感情的になっている日に、ノートにその気持ちをぶつけるの。それも、話すように。出来事を書き留めておく日記とは違って、感情を吐き出すだけなんだけど、これがなかなか良いんだよね。嫌なことだけじゃなくて、嬉しかったこととか、感動したことも吐き出すの。良いことも悪いことも、一日の終わりに日記に書き出すと心がスーッて静かになるんだ」

「へぇ」

それなら、あるいは自分にもできるかもしれない。自分との交換日記とか、手紙のような感覚で、とか、そんな発想が無かったし、毎日まめにつけなくていいなら、三日坊主の私向きだ。

「私も、真似してみていいですか?」

「もちろん。罫線も何も入っていない真っ白なノートがおすすめだよ。文字の大きさも、長さも、ページの使い方も自由だから。あ」

先輩は、何か思いついたように「あ」と付け足した。

「そういえば、そろそろ誕生日じゃなかったっけ?私がいつも使ってるおすすめのノート、プレゼントするよ」

「え?いいんですか?」

先輩のこういうところは本当にすごいと思う。記憶力も良いし、気遣いや気配り、それからちょっと嬉しくなることをさらっとしてしまう。仕事のストレスも上手に緩和して、頼られる存在として活躍して、こんな人になるのは一生無理だと思うけれど、憧れる。

翌日、先輩は私に透明のセロファンでラッピングされたプレゼントを手渡した。

「はい。ちょっと早いけど、善は急げって言うし、もう渡しちゃう」

透けて見える包装の中には、落ち着いた茶色の表紙に金箔の装飾があしらわれているノートと、コーヒーの粉がセットになっていた。

「コーヒーまで! いいんですか?」

「うん。あのコーヒー、おいしいって言ってくれたでしょ? 同じお店のお気に入りのコーヒーなんだけど、これね、デカフェだから寝る前の一服にもおすすめなの。これ飲みながらリラックスして、日記つけてみて」

このプラスワンだ。これが先輩の強みであり、愛される長所なのだ。見習いたいところが多すぎて、本当に同じ人間なのかと疑いたくなる。こんな人と一緒に働けて、出会えて良かったと心から思った。

帰宅して、早速コーヒーを淹れる。

コーヒーの香りが部屋を包み、それだけで穏やかな気持ちになる。この香りには不思議なリラックス効果があるようだ。

淹れたてのコーヒーは、まろやかなコクが心を満たし、優しく甘い後味が気持ちを和らげてくれた。先輩の柔和な笑顔を思い出す。

「今日もおつかれさま。一日がんばったね」

そんな言葉をかけてもらったような気持ちになり、目を閉じ深呼吸するとリラックスしたように身体の力が抜けていった。

カップを置いて、日記帳を広げる。

先輩からもらったコーヒー色の日記帳を広げると、中は罫線も何もないページがどこまでも続いていた。真っ白というよりは、ベージュのような淡い色がついていて、それもまた良かった。

それから、ペンを手に取った。最近は専らパソコンやスマホばかり使っていて、ペンを持って文字を書くことそのものが新鮮な気分だった。

最初のページには、先輩から日記帳とコーヒーをプレゼントしてもらったことを書こうと決めていた。喜怒哀楽、さまざまな感情を吐露する日記帳の最初のページがポジティブで暖かい気持ちのもので良かった。

いつまで続くか分からないと思っていたが、それから数ヶ月経ち、意外にも日記をつけることは私の習慣となっていった。先輩が言っていた「感情的になっている日」だけ、その気持ちを日記帳に吐露することで、眠る前に心がスッと静かに落ち着くような気がした。

上手くいかなかった日も、嫌なことがあった日も、逆に嬉しかった日や興奮している日も、日記に気持ちをぶつけることでニュートラルになれた。

そして、そこにはいつもコーヒーがあった。

先輩からもらったコーヒーが無くなった後も、自分で気に入ったコーヒーを調達してきて、お気に入りのカップに淹れて飲むようになった。眠る前の一杯にはまった私は、いつもデカフェのコーヒーを選ぶ。優しく包み込むような香りと風味が、一層気持ちを落ち着けて頭の中や心の中を整理してくれた。

先輩にお礼を言って、日記もコーヒーも続けていると伝えると「もしさ、日記に書いただけじゃ気持ちが落ち着かない!ってことがあれば、いつでも言ってね。いくらでも話聞くから」と笑ってくれた。

やっぱり先輩はいつもプラスワンだな、と感服した。

不特定多数の出会いがある日々の中では、良い出会いもあれば悪い出会いもある。先輩との出会いは一生大切にしようと心に決め、私は「ありがとうございます」と、とびきりの笑顔を返した。

著者 emiglia(エミリア)
音楽家×ライター。大手音楽教室講師、青年海外協力隊、Web制作会社勤務を経て、フリーランスのライターとして独立。ピアノ演奏や作編曲、ライティングの依頼を受け、これまでに二三〇〇件を超える作品を生み出す。二人の息子を育てながらパソコンに向かう日々の中、夫が豆から淹れたコーヒーを飲むのが癒しのひと時。
コーヒーについて
一日が終わる時には、自分に向けて〝おつかれさま〟と言ってみる。仕事、子育て、勉強・・。今日一日の中でしたことを振り返り、がんばったねと自分を労う言葉が疲れをスッと軽くしてくれるはずだから。今回は、マンデリンのカフェインレス(デカフェ)の豆を深めに焙煎してまったりとした質感に、おやすみ前に一日をリセットしてくれる労いの一杯に仕上げました。※お湯の温度を八十~八十三度くらいで少し低めの温度で淹れることで、苦味が和らいでまろやかな甘い味わいになります。
ものがたり珈琲
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