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静かに自分と向き合う時に
「待ち合わせは二時間前」と告げると、マスターは目を丸くした。
時間つぶしでよく利用する喫茶店には、今日も私のほか誰もお客さんがいない。だからこそ、自分の発した声が悲しいくらいに響く。
せっかくの休日だというのに、外はあいにくの雨模様。六月のジメジメとした空気は、吸い込んでいるだけで心にもやがかかってしまいそうだった。
「あれ、今日が記念日って言わなかったっけ?」
ぱちぱちと瞬きをしながら尋ねてくるマスター。
覇気のない相槌を打ちながら、冷めきったコーヒーをすする。
そう、今日は彼と付き合って三年が経つ日だ。
待ち合わせのあとは話題の映画を観て、気になっていたカフェでご飯を食べよう。道端のアジサイでも見てはしゃいで、ちょっとだけ眺めのよいお店でディナー。ドキドキしながら渡すプレゼントに、彼は喜んでくれるだろうか。
なんてことのない、ありきたりな幸せを思い描いて家を出たのだが、現実は一八〇度違った。
二時間待ちぼうけを食らったうえ、送ったメッセージに返事はないし、既読も付かない。時間にルーズな彼のことだからと、ここまでは受け止めることができた。こっちだって華々しい記念日には、穏やかなままでいたい。
仏のような心で待ち続ける私に冷や水を浴びせたのは、友人のインスタから流れてきた一件のストーリー。
耳をつんざく大音量のEDMが流れるなか肩を組み、浴びるように酒を飲む男女のグループ。一瞬どこかのクラブかラウンジかとも思ったが、どうやら少し広いだけでメンバー誰かの自宅らしい。
「近所迷惑」の四文字が頭を圧迫して、スマホの画面をスワイプしようとした矢先、親指の下にこれから会う予定の顔を見つけてしまった。
ストーリーの投稿時間から察するに、少なくとも彼は今日の朝方まで仲間たちと酒をかっ食らっていたらしい。乾杯にかこつけて、メイクの濃い女の子達とベタベタしながら。
彼が待ち合わせに遅れてくることは、これまでも度々あった。「ごめんごめん」と屈託のない笑顔が憎めなくて、ずっと言葉を飲み込んでしまっていたが、あのときも彼は朝まで宴に浸っていたのだろうか。
というか、ここまでくると今日が記念日だと覚えているのかすら怪しい。
「いやこれ、予定すっぽかされたんじゃない?」
つらつらと胸の内を吐露したところ、飛んできた声に思わず顔を上げる。
注文を取りに来たはずのマスターは、気づけばやれやれといった表情で向かいの席に座っていた。その顔が腹だたしくて睨みつければ、今更ながら存外若い風貌をしていることに気付く。まだ夏も本番ではないのに浅黒い肌と、長く伸びた髪からは、どこか旅人のような雰囲気を感じた。
「︙︙そうかもしれませんね」
平気でデリカシーのないことを言うから、この店は繁盛しないのではないか。そんな小言のひとつでも言ってやりたかったが、正直ぐうの音も出ない。
「記念日でしょ? そんなにぞんざいに扱われて、よく何年も続くもんだね」
同じことを友人からも言われたことがあった。彼の良くない噂をわざわざ聞かせてくれる子もいた。平均的な目線からすれば、彼が模範的な恋人ではないのはとっくに分かっている。でも、それでも。
「︙︙恥ずかしい話ですけど、初めて自分のことを好きだって言ってくれた人なんです」
初恋の人と結ばれた。
それだけで、一緒にいるのには十分すぎる理由だった。
自分に自信など微塵も持てず、恋愛なんて夢物語だと思っていた私に、想いを伝えてくれたのは彼の方から。向こうも別に経験豊富というわけではなくて、一生懸命に口に出す言葉が支離滅裂だったのをなんとなく覚えている。
ただ「好き」の二文字が届いた時には、体がふわふわと宙に浮いて、どこかに飛んで行ってしまうのではないかと思った。
彼に手を引かれて、色んな所に足を伸ばした。暗がりで本ばかり読んでいた私に、旅行や街歩きを教えてくれた。かわいいと褒めてくれるから、メイクやファッションの楽しさを知った。
彼から受けた仕打ちよりも、彼から貰ったものの方がきっと多い。
そんなことを考えてしまうのは愚かだろうか。
実際、陰で何かがあったとして、どろりと湧いた気持ちを飲み込んでしまえば平和のままだ。また笑顔で目の前に現れてくれるだけで、幸せだと思ってしまうのは間違っているのだろうか。
「だから、怒る気になれないんですよね」
「そっかあ」
思い出と心の奥底にある気持ちから溢れた言葉を、喫茶店の店主は小さくうなずきながら聞いていた。もしかしたら私の表情から何かを察したのかもしれない。
「三杯目、飲むでしょ?」
一瞬何のことか思考が追い付かず顔を上げると、マスターの人差し指の先には、とっくに空になったコーヒーカップがあった。
数えきれないくらいスマホに目をやったが、いまだに通知はない。ゆっくり首を縦に振ると、目の前の男はなぜか悪戯っぽく笑った。
「しょうがない。悩める若者へ、特別にサービスしてあげる」
快活に手を打って、椅子から立ち上がったマスター。甘いものでもつけてくれるのかと思ったが、どうやら違うらしい。すたすたとカウンターの向こうに引っ込んだ彼は、こちらに手招きをしている。
「え、なんですか」
「せっかくだから、一杯自分で淹れてみなよ」
慣れた手つきでマスターはドリッパーやフィルターを取り出す。恐る恐る厨房に歩み寄ると、手挽きのミルとコーヒー豆の入ったキャニスターを渡された。
静かに話を聞いていた姿とは打って変わって、無駄なく洗練された動きに思わず面食らう。指示されるまま、豆をミルに投入し、ゴリゴリとしばらく回していると、火にかけていたポットが煙を吐いた。
「ゆっくりね」
カップの上にドリッパー、フィルター、挽き終わった豆を順に重ね、マスターは私に ポットをよこした。最初のお湯を少しだけ注いで数十秒蒸らしたあと、優しく「の」の字を描きながらお湯を注ぐ。
「上手いじゃん」
「マスターの見よう見まねですけど」
他愛もない会話をしているうちに、深いセピア色をした一杯は完成した。
上に乗った器具を外して、マスターが差し出すカップを受け取る。口元まで運んだコーヒーからは、どこか甘い香りが鼻腔に届く。
少しずつ冷ましながらひと口すすると、ローストしたナッツのような香ばしさと、熟したリンゴやハチミツのような甘酸っぱさがじんわりと広がった。
「美味しい︙︙です」
ゆっくりと嚥下したのち、無意識に零れた言葉だった。
「でしょ」
それを聞くなり、マスターは満足げに笑う。
「実はこれ、さっきまで君が飲んでた二杯と同じものだよ」
耳を疑い、マスターの顔をまじまじと見つめてしまう。堂々とした態度からは、嘘をついているとは思えなかった。散々の待ちぼうけで気分が沈んでいたとはいえ、ここまで味に違いを感じるものだろうか。
「不思議そうだけど、単純なことだよ。自分で手間ひま掛けたものって美味しいんだ」
そう言われて、子供の頃に母と一緒に初めて作ったホットケーキが、とても美味しく感じたのをなんとなく思い出した。
そばにあったキャニスターを手に取りながら、マスターは溜め息をつくように続ける。
「俺はね、この感覚にやられちゃったの」
今まで聞いたことがなかった店主自身の話に、思わず向き直った。
「学生の頃からコーヒーずっと好きでさ。いつか自分で店やってやろうと思って、ずっとブレンドの研究してたんだよね。仕入れ先も抽出方法も全部こだわって、初めて納得のいく形になったときは飛び上がるくらい嬉しかった。俺、天才じゃんって。淹れるコーヒー全部に魔法がかかってるんじゃないかって思ったもん」
思い出を語るマスターは、最初の印象よりもずっと若々しく見えた。
「だけど、他人からしてみれば店には魔法もないし天才もいなかった。まだまだ慢心だったわけ。だからこんなに店は流行らない」
今まで直接触れなかったのに、自覚があったことに驚いた。
「でもさ、これでよかったと思ってるんだよね。今まで自分のこだわりを、誰かに認めてもらいたいばっかりだった。尖がりまくって一生人気の無い店やってるより、まずはお客さんに居心地がいいと思ってもらえる場所を作ろうって思えたから。俺が好きなものとか知ってもらうのはそれからじゃないと、そもそも伝わるわけがないってね」
いつのまにか、マスターの手には新しくコーヒーを淹れたカップが握られている。
「︙︙きっと、いつか流行りますよ。お店」
「ありがと。俺もそう思ってる」
「自分で淹れるのがこんなに美味しいなら、お客さん全員セルフでどうですか?」
我ながらくだらない文句を吐いたと思う。それを聞いてマスターは、一瞬面食らったような顔をしたが、やがてニヤリと笑った。
「名案かもね」
■◇■
『買い出しに行ってくるから留守番頼むよ』
貴重なお客さんに告げる言葉だろうか。少し前にマスターの背中を見送ったあと、一人静かな喫茶店でコーヒーをすする。美味しさのトリックを明かされても、冷めきってしまっても、自分で淹れたコーヒーはやっぱり格別な気がする。
しばらくぶりにスマホの画面を確認するが、案の定彼からの連絡はない。
「︙︙手間ひま掛けちゃったもんな」
彼と一緒にいて、振り回されることは多かったけど、楽しかったのは本心だ。
ただ三年という時間と、彼の存在を何よりに考えてきたことが、思い出を美化しているのだろう。だから自分の知らない彼から目を逸らした。不安なんて自分がすべて飲み干してしまえばいいと思った。
『︙︙なんでそんなに健気なの』
友人から何度か言われた言葉を思い出す。端から見れば私は放浪者の恋人の帰りをいつまでも待ちわびる、可哀そうな彼女に映るのかもしれない。
でもきっとそれは違う。私が、彼にすがっているだけなのだ。
「好き」の二文字を初めて贈ってくれた相手を、あの体が宙に浮くような感覚を、失いたくなかった。自分から離れることなく、感情を押し殺してしがみついていよう。そうすれば、きっとまた彼は私の手を引いて、広い世界を教えてくれるはずだ。根底にあるのはそんな飲み込まざるを得ない、卑しい気持ちだった。
そう感じた途端、目の奥は煮え立ったように熱くなり、涙が止まらない。
「︙︙ふふ」
誰もいない喫茶店でテーブルに突っ伏して、思わず笑ってしまう。自分の恋で泣いたのは、これが初めてだった。今まで必死に大人ぶってきたくせに、ちっぽけにもほどがある。
手元にあるコーヒーを飲み干すと、私はアプリを起動して、彼とのトークを開いた。未だ既読のつかないメッセージは気に留めず、精いっぱいの圧力を込めた親指で、通話のボタンを押す。数回のコールのあと、意外にも彼は通話に応じた。
電話口からはザアザアと雨の音が聞こえる。彼の息は荒く、急いで向かって来ている雰囲気を醸し出している。これまで何度と見てきた手口だ。
「ごめん、今どこにいるの?」
向けられた質問には答えられなかった。通話ボタンを押したはいいものの、色んな想いが渦巻きすぎて、何から最初に話せばいいのか分からない。
だけど感情を飲み込むのは最後にしよう。コーヒーの余韻が残っている間に、手間ひまかけてしまった思い出と、自分と向き合おうと思った。
大丈夫と、小さく唱えて深呼吸。六月の湿った空気を吸い込んでも、どんなに涙で視界が霞んでいても、今は心の底が見えなくなることはない。
「あのね――」
- 著者 シラサギさん
- 東京都在住の物書き。二〇二一年よりTwitter/Instagramで一四〇字の超短編小説『誰かの短い物語』を執筆中。センチメンタルでどこか共感を呼ぶストーリーがZ世代を中心に話題となり、文章と恋愛を軸に活動を続ける。
- コーヒーについて
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休日に、朝起きて雨が降っているとついつい気持ちまで湿っぽくなりがち。でも美味しいコーヒーを淹れて家の中でゆっくりと一人の時間を楽しむ良いきっかけにもなります。雨の日は、見える世界のすべてが淡くもグレーな色彩となり、気持ちもニュートラルになりやすいので、静かに自分と向き合う時間にはぴったりです。そんな日に飲みたい今回のコーヒーは、チョコレートやナッツ系の豆とブルーベリーの風味の豆を中深煎りに焙煎し、落ち着いた苦味の中にも、後味にフルーツ由来の甘さを感じられるブレンドに仕上げました。