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ターニングコーヒー

ターニングコーヒー

私が大学に到着する頃、日はとっぷりと暮れていた。キャンパス内はむせ返るような空気が充満していて、リクルートスーツとの相性は最悪だった。ゼミを終えたであろう学生の集団が私の横を通り過ぎて、意気揚々と駅の方へと向かっていく。これから飲み屋で打ち上げでもするのだろう。腕時計に目をやると、時刻は丁度20時を示していた。図書館は既に閉まっている。私はしばらく悩んだ後、演劇部の部室へと向かった。

キャンパスの奥の区画を抜けて、さらに奥の号館へと入る。すぐそばにあるエレベーターを通じて地下二階へと降りると、ひたすらに真っ暗な廊下が現れる。歩き慣れたそこをまっすぐに進むと、演劇部の部室が見えてきた。誰か部屋にいるのか、ドア下の隙間から光が漏れていた。本来ならば、こんな遅い時間まで誰かが残っていることはない。なんだか怖くなった私は、中から何も音がしないことを確信すると、おそるおそるノブを捻った。

「ああ、先輩」

ドアの先にはパソコン画面に釘付けになっている女子の後輩がいた。動画か映画でも見てるのだろう、彼女の耳にはイヤホンが付いている。見慣れたお気楽顔に私は完全に気が抜けてしまう。いい加減うざったくなった上着を脱いで長机に放る。

「お疲れ」

「お疲れ様です。先輩は︙インターンですか」

「うん、レポートあるからまとめにきたの」

私も鞄からパソコンを取り出して起動する。今日中に終わらせたいレポートがあと2つはあった。パイプ椅子に腰かけた途端、今まで溜め込んできた疲れがどっとやってきた。キーボードに置こうとした手は自然と額を押さえていた。パソコンと向き合うだけで頭痛がする。授業課題のレポート、インターン先での反省点、卒業要件単位と資格取得。「学生の仕事は勉学だ」と言うのであれば、これほどの量は違法労働に該当していた。「あれもやらなければ」が次から次へと湧いてきて、目に入るもの全てに不快感を覚えている自分に気が付く。不意にわざとらしいため息が零れると、後輩が心配そうな口ぶりで尋ねてきた。

「大丈夫ですか?軽く休憩を取ってから始めたらどうです?」

「そんな時間ないよ」

条件反射的に出たその言葉は、自分でも驚くほどぶっきらぼうだった。ハッとして後輩の方へ向き直る。彼女は呆気にとられたような顔で私を見つめていた。

『最低じゃなかろうか』

疲れの原因も終わらない課題も、要領よくこなせない私のせいだ。全てが自己責任なのに後輩に八つ当たりをするなどお門違いも甚だしい。悪いのは全部私だ。

「ごめん。ちょっと疲れてて」

「いえ、私も邪魔してすみません」

あからさまに空気が悪くなるのを感じた。罪の意識から逃げるように課題フォルダを開く。無心にキーボードを叩いてみるが、集中できるはずもなかった。もう帰ってから取り組んだ方が良かった。腕時計は21時を示している。此処を出て、家で課題を終わらせて、床に就くまでの時間を逆算する。ぎりぎりなんとかなりそうだった。明日も早い。こんなところで無駄な時間を過ごしているわけにもいかない。

「コーヒー、飲みますか?」

帰ろうとした寸前、後輩に呼び止められる。

彼女の手にはマグカップが握られていた。

部室にはコーヒー豆と電動のミル、ポットとカップが常備してある。コーヒーメーカーやインスタントはないため、淹れるとなると15分以上はかかる。熱いからすぐに飲み干すこともできないし、なんだかんだで30分は拘束されるだろう。

しかし、彼女にきつく当たった手前、その優しさを無下に断るのも気が引けた。考えに考えた後、私は彼女の好意に甘えることにした。事実、朝から何も口にしていないし、身体は錆びたように重かった。関節を動かすたびに筋肉が軋む音がした。伸びをすれば、今にも背骨がバキンと折れそうだった。

ここらで潤滑油を身体に流し込んだ方が良いのは確かだった。ここで過ごしてしまった時間に関しては、その分の睡眠を削ればいいだけの話だ。

パソコンをそのままに、私は後ろの戸棚から自分のカップを取り出す。久しぶりに手に取ったそれは所々汚れていた。思い返せば、入部した1年生の春から使っている。稽古が終わった時も、他愛のない談笑をした時もこのカップでコーヒーを飲んでいた。私は思う。

『生きていけるのかな、私』

学生でなくなったら、私は何者になるというのか。社会の荒波に流され、忙殺される毎日が簡単に想像できた。大学に来ることも演劇を楽しむことも無くなって、ひたすらにモノクロな日々がやってくる未来も簡単に思い描ける。憂鬱なことしか考えられなくなって、今まで縋っていた楽しみの全てが思いだせなくなっていく様もだ。ただ、そこまで想像できてなお、私は社会で生きている自分のことは想像できない。疲れのせいか、何も考えられなくなって、身体も思考もフラフラしだす。

これ以上、後輩に気を使わせる訳にもいかない。思わず、零れそうになったため息を喉奥に押し戻す。なんにせよ、嘆いたところで何も変わりはしないのだ。これから出る社会で必要とされているものも、感情ではなく、与えられたことを淡々とやる精神力だろう。ドリップをする後輩の傍にカップを置き、適当な椅子に腰掛ける。彼女はお湯を注ぎ込んではパソコンの画面を眺めていた。気になって横から覗いてみると、何かの映画だった。

「課題?映画の評論書くやつ?」

「いえ、これは違うやつです」

彼女は動画を止めてイヤホンを外す。

「私は女優になるので。そのための勉強です」

彼女はさも当然そうに答えた。決定事項を告げるようなトーンだった。その顔には何の疑いも不安も浮かんでいない。絶句する私をそのままに、首の骨を鳴らして呑気そうにお湯を注いでいた。

無理に決まっている、と思った。私が言えた口ではないが、今までの彼女にアクターとしての才能を感じたことはない。無論、私も彼女みたいな夢を抱えてこの部に入部してきた。だが、「やりたい」と「できる」は違う。なれるものならば、私だって女優になって成功を掴みたい。しかし、現実を知ってるからこそ、その道が生易しくないことは人一倍知っていた。知ってしまったからこそ、私はその夢を早々に諦めたのだ。ともすれば、彼女は現実を見ていない。今の子供ですら「将来の夢は?」と問われて、「公務員」とか「サラリーマン」と答えるくらいなのだ。この時代、一般企業に就職して第二・第三希望ぐらいの現実を生きることが普通であり、現実なのだ。

何が彼女をそこまで駆り立てる。それは果たして分相応な現実か。

「私、先輩も女優になると思っていました」

「は?」

またしてもこの後輩は突拍子もないことを言う。

「どうして?」

「演劇をやってる時の先輩、生き生きしてたので。好きじゃないんですか?」

「好きとか楽しいだけでどうにかなったら苦労しないけどね。現実問題、私には才能がない」

「それを言ったら、私も才能なんてないですよ」

「︙ま、演劇で食べていくってのも現実的じゃないからさ」

もう結構だった。今すぐ彼女の声の届かない場所まで逃げたかった。このキラキラした発言を聞いていると、どうにかなりそうだった。そんな私を無視して、後輩はパソコンの画面を指さした。

「現実現実って、これだって現実に起きてることですよ」

「それはそうだけどさ︙。いつ芽がでるかわかんないよ。たぶん、一生芽が出ない人の方が多いよ。だったら、こうやって就活してた方がいいでしょ」

良くないことを言っているのはわかっていた。夢見る後輩を前にして、また1人の女優志望者を前にして、これは絶対に言うべきことではなかった。彼女は押し黙ったままカップにコーヒーを注ぎ、私の前にそっと置いた。

「そんな今にも死にそうな表情のまま、この先の長い人生を生きていく方が現実味無いですよ」

差し出されたコーヒーの表面に私の顔が映る。くたびれた雑巾みたいな表情だった。

「人生って2度はないんですよ?それで納得できます?」

命には時間制限がある。何もしなくてもいずれは終わりを迎えてしまう。リセットもセーブも存在しない。今ここで生きている時間しか私は体験できない。そんな当たり前のことは知っていた。ではその間中、私は楽しくもないことを一生の仕事とすることができるのだろうか。仮になし得たとして、今わの際になった時、私はそれで満足するのだろうか。

「どうです?私と一緒に女優になりませんか?」

彼女は依然として自信に満ち溢れた顔をしていた。とても「今やってること全部投げ出しちまえよ」と言っている張本人とは思えなかった。

『馬鹿げてる』

彼女の言っていることは所詮、耳障りが良いだけの現実逃避だ。若気の至りで広げる風呂敷そのものだ。私は勝手に逸る鼓動を抑えるべくコーヒーを一啜りする。淹れたての熱いコーヒーが喉を通って指の先まで届く。その時、私は自分の身体が冷えていたことに気が付いた。実家の台所でコーヒーを立ち飲みしていた記憶が脳裏に甦って。私をひどく懐かしい気分へと誘う。胸の高鳴りは増すばかりだった。

全身の空気が抜けるのではないかと思うほど深いため息が零れた。頭をかきむしりながらパソコンの前に戻ると、やりかけの課題が待っていた。しばし考えた後、私は課題がまとまったフォルダを全部ゴミ箱に運び、完全に削除した。コーヒーを流し込み、天を仰ぐ。

「私も映画見ていい?明日から暇になっちゃった」

「いいですよ。初めから見ますか。字幕はつけますか?」

「一回目は字幕なしで」

私はパソコンを閉じて、後輩の隣に座った。

今になってわかる。あれが分岐点だった。あの胸の高鳴りに耳を傾けて、人生を賭けてみたくなったのだ。勿論、その時の私は微塵も理解していない。あの時はただただこの胸の高鳴りを収めようと必死で、コーヒーを飲んで落ち着こうとしていたのだから。

著者椎名 想太郎
monogatary.comを拠点にファンタジーばかり書いている夢想家。読者のコメントと反応が主食という、自意識と承認欲求の権化。最近になって「私って奴は読者を考えさせる物語を書きたいんだな」と自覚するようになった。
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